尾崎紅葉は山の名前? ―3人目・尾崎紅葉―

学問のすずめ

尾崎紅葉は山の名前? ―3人目・尾崎紅葉―

シャーリィ
シャーリィ

今日は尾崎紅葉の由来について教えてください!

チュン太先生
チュン太先生

尾崎紅葉か……明治文学の大親玉だね。

シャーリィ
シャーリィ

兎に角大きな存在だと知っていますが、どんな業績があるんですか?

チュン太先生
チュン太先生

昭和の頃までは、『金色夜叉』の作者で通じたそうだが……今やその『金色夜叉』が話題にならないからなあ……親しまれた作品が忘れられ、共通項がなくなると途端に説明が難しくなるんだよね……。

チュン太先生
チュン太先生

尾崎紅葉は、本名・尾崎徳太郎。慶應3年生れ――だから、夏目漱石や幸田露伴や南方熊楠なんかと同い年だった。

シャーリィ
シャーリィ

へえ~その年は随分とビックネームが出たんですね?

チュン太先生
チュン太先生

これに注目して、坪内祐三が『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』なんて本を書いたくらいだよ。なかなか面白い本。まあこれはまた探して、紹介するよ。話を戻すが紅葉の父親は尾崎谷斎という根付の彫刻家だった。

シャーリィ
シャーリィ

根付?

チュン太先生
チュン太先生

戦後に流行したキーホルダーというべきかね。昔もそういう小物があったんだね。煙草入れや印籠――薬入れなんかに入れるものがね。それを作る職人さ。

シャーリィ
シャーリィ

へえ~、そういう小物文化って昔からあったんですね?

チュン太先生
チュン太先生

この谷斎という人は、扱いが難しいといわれた鹿の角を使った根付が上手くてね、一度彫れば好事家たちが殺到するほどの人気があったんだが――奇人変人の一人でね、仕事嫌いで道楽好きという、ヘンクツな人だったと伝えられる。

シャーリィ
シャーリィ

名人気質というやつですか?

チュン太先生
チュン太先生

名人気質――なのかなあ。本業をそっちのけで、赤い羽織を身にまとってね、派手な格好をして作家や芸人と遊ぶのが好きだったんだね。ある意味では「たいこもち」的な人だったんだ。関係者の間では「赤羽織の谷斎」という綽名で有名だったんだけど、この父親を尾崎紅葉は徹底的に嫌っていた。

シャーリィ
シャーリィ

どうしてですか?

チュン太先生
チュン太先生

一つはあまりにもチャラついていて、世間の笑いものだったきらいがあるからだろうね。当時は未だ、芸人だの目立つ仕事ってのは卑しめられていたから。

チュン太先生
チュン太先生

もう一つは、自分をろくろく養育しないで、自分を祖父母に預けた――という家庭的な事情かな。言うなれば、親の顔をよく知らないんだ。親父の背中を見て育ってない。

シャーリィ
シャーリィ

……なかなか根深いんですね。

チュン太先生
チュン太先生

遊び好きな親父への嫌悪からか、紅葉自身は立身出世主義的になってね、漢学や英語やらを猛勉強して、知識を蓄えて、当時としては超の付くエリートの証である、帝国大学まで進んだんだ。

シャーリィ
シャーリィ

へえ、それはすごいですねえ!

チュン太先生
チュン太先生

ただ、大学予備門時代――高校生くらいに文学や創作に凝ってね、勉強そっちのけになり始めた。で、それで人気が出るようになったから、「文学で出世すればいい」という考えになったわけだ。

シャーリィ
シャーリィ

また、凄い転身をしましたね……。

チュン太先生
チュン太先生

それで予備門の同級生たちを集って、17歳の時に、一つの文学サークルを作った。これが「硯友社(けんゆうしゃ)」だ。日本初の文学サークルともいっていいかもしれない。そこで『我楽多(がらくた)文庫』という雑誌を作った。

シャーリィ
シャーリィ

学生作家ですか。

チュン太先生
チュン太先生

学生作家だね。ここでは山田美妙とか石橋思案とか日本近代文学の基礎を築いた人々も集った。そういった活動からも「日本近代文学の大親玉」と目されるわけ。これだけの人材が集まったサークルなんて、なかなかないからね。

チュン太先生
チュン太先生

で、21歳の時に『二人比丘尼色懺悔』という小説を発表した。これは、江戸文芸の『二人比丘尼』という悲恋物語をひねった作品で、文体も雅文体――と悪く言えば、江戸文芸の伝統であった「書き換え」の趣のある者だったんだが、当時は新鮮に見られたんだね。

シャーリィ
シャーリィ

書き換えで、ですか?

チュン太先生
チュン太先生

まあ一つは、尾崎紅葉がこれを書く頃の小説というと、大体は「政治小説」「思想小説」――「政治改革」や「西洋のこと」を訴えるものが多かった。それはそれでいいんだが、余りにも説教臭いのと、欧米礼賛が並ぶから嫌気が差してくるわけだね。無論、江戸時代以来の戯作や草紙調の作品もあったが、既に新鮮味を喪っていた。

チュン太先生
チュン太先生

その中で、近代的な技法を加えた悲恋物語が出てきたわけだ。しかも題材は当時の人が良く知っていたもの……これで人気が出ない方がおかしい。いうなれば、芥川龍之介的な路線を行ったわけだ、有名な話をうまく改良して、現代的な「文学」へと昇華させた。

シャーリィ
シャーリィ

なるほど……温故知新を地で行ったわけですか。

チュン太先生
チュン太先生

そういう事になるかな。無論、「恋愛観や考えが旧弊」「洋装せる元禄文学」なんて批判もあったが……そんな作品群で、爆発的な人気を得たんで、学生の身分ながら読売新聞に入った。そこで原稿の仕事を始める。大学なんか行っていられないよ。結局、中退をしてしまった。以来、20代にして尾崎紅葉は当時の文学を担う人物になった。

シャーリィ
シャーリィ

20代で……すごいですね。そこから死ぬまで作品を生み出すわけですか。

チュン太先生
チュン太先生

そうだね。私淑していた井原西鶴の文体や作風をうまく生かしながら、西洋的な考え方や文学を折半しようとした――無論、全て成功はしなかったんだが……。

チュン太先生
チュン太先生

余談だが。『喜劇』という言葉を広めたのは、尾崎紅葉という説がある。

シャーリィ
シャーリィ

喜劇を?

チュン太先生
チュン太先生

うん。モリエールという作家が書いた『守銭奴』という劇があったんだが、尾崎紅葉はこれを翻案して『夏小袖』という作品を書いた。この『守銭奴』ってのはコメディなんだね。でも「喜劇」という言葉はなかった。「滑稽芝居」ではおかしい。

チュン太先生
チュン太先生

そこで仲間と相談して「喜劇」というのを考案した。『喜劇 夏小袖』という形で発表したんだね。後年、この「喜劇」という語を見て感化されたのが、曾我廼家五郎・十郎という俳優。彼らは「曾我廼家喜劇」と名付けて日本の喜劇を築くんだが――五郎自身が「尾崎紅葉先生の夏小袖から拝借した」と語っているんだね。意外な功労者だ。

シャーリィ
シャーリィ

意外なところでつながるもんですねえ……。

チュン太先生
チュン太先生

基本的に、尾崎紅葉の作品はかつての元禄文学の復権というべき擬古文や描写なんだが、一方で二葉亭四迷の「言文一致」や、かつての盟友で絶交した山田美妙の「口語体」に対抗してか、全部、口語体で構成された『多情多恨』なんて作品を書いた。

チュン太先生
チュン太先生

皮肉な話なんだが、この作品の文章といい、心理描写といい、「新しい文学」と息巻いた二葉亭四迷や山田美妙よりもうまいんだ。今でも少し努力すればすんなり読めるだけの自然さを持っている。

シャーリィ
シャーリィ

天才だったんですかね。

チュン太先生
チュン太先生

そうだろうね。当人もそういう自信家だったらしいし。

チュン太先生
チュン太先生

そんな性格からか知らないが、後進の面倒見もよくてね、「硯友社」には多くの若者や作家を登用した。また、尾崎紅葉を慕って弟子と称する若者たちが出入りするようになった。泉鏡花、柳川春葉、小栗風葉、巌谷小波、江見水蔭、徳田秋声、田山花袋、とかね。

シャーリィ
シャーリィ

田山花袋なんかもいたんですか?!自然主義なのに。

チュン太先生
チュン太先生

もっとも、田山花袋や徳田秋声は冷遇組だったんだけどね。そうした反動が、自然主義へと向かわせたようだが……。しかし、そんな作家たちを育て上げ、一時代を築いた尾崎紅葉の存在はやはりただ物ではないね。

シャーリィ
シャーリィ

尾崎紅葉の傑作は『金色夜叉』と先程仰ってましたが……。

チュン太先生
チュン太先生

うん、それはね、最晩年の事ね。29歳の時に、『金色夜叉』を発表した。学生の間貫一は、許嫁のお宮が自分の元を去って、大富豪の富山という男に倉替えをする事を知る。無論、お宮には別の本心があるんだが、「貧乏学生ゆえに裏切られた。金が憎い」と、卒業後に高利貸しとなって復讐を誓う――という筋だ。

チュン太先生
チュン太先生

「金ゆえ」に「夜叉の如き魑魅魍魎に堕ちる事を厭わぬ」から「金色夜叉」と名付けたのではないかね。

シャーリィ
シャーリィ

この作品、小説よりもお芝居で有名だったそうですが……。

チュン太先生
チュン太先生

そうね。熱海の海岸で、お宮の裏切りを知った貫一がお宮の言い訳を聞かずに足蹴にするシーンは、芝居のみならず、漫才、映画、果ては漫画やアニメにまで大きな影響を与えた。明治時代の作品では『吾輩は猫である』『不如帰』に並ぶほどの大きなドル箱だったといってもいいだろう。

チュン太先生
チュン太先生

元々は川上音二郎なんかの壮士芝居がやり始めて、大当たりをしたのをきっかけに、後年多種多様なジャンルで演じられるようになったが――一説では、尾崎紅葉はあまり「金色夜叉」の芝居をよく思っていなかったそうな。

シャーリィ
シャーリィ

それはどうして……。

チュン太先生
チュン太先生

自分が苦心して生み出した文章の妙、作品の構成の面白さがほとんど生かされず、芝居本位での作品になってしまったから、という。ある作家が「金色夜叉は、芝居になって寿命を得たが、一方で真の面白さを失った」とか評したそうだが――小説よりも芝居の方が先行してしまったという稀有な例でもある。

シャーリィ
シャーリィ

難しいものですね……。

チュン太先生
チュン太先生

それに、尾崎紅葉が『金色夜叉』を完結まで持ち込んで、何か一言残してくれればよかったんだが、この連載直後に尾崎紅葉は健康を損なうようになる。当初は消化不良とか胃の痛みだったんだが、徐々に衰弱が始まった。よく調べてみると重度の胃がんだったそうだ。

シャーリィ
シャーリィ

ええ……当時の胃癌って大変なのでは。

チュン太先生
チュン太先生

七転八倒の苦しみだったそうね。抗がん剤ないし、手術は未熟だし。それでも彼は寿命を削って、弟子を育て続け、『金色夜叉』を書き続けた。そうした無理がたたってか、35歳で夭折した。

シャーリィ
シャーリィ

早いですね……。

チュン太先生
チュン太先生

でも、35年だけの人生とは思えぬほどの仕事や人材を果たした。作品自体は旧弊な所があり、近代文学への昇華にまで至らぬ所はあったようだが――それでも、日本近代文学における大スターとして君臨し、多くの青少年や関係者に衝撃と希望を与えた、というだけでもその存在価値は決して小さなものではない。

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