露伴の由来
じゃあ、露伴ってどういう意味を込めて付けたんですか?
ないんだな、それが。深い意味はない。
えー?!
そもそも露伴本人が、生前関係者に「深い意味はないよ」と語っていた始末だったというのだから本当に意味はないのだろう、「単に露を愛おしく思ったから成り行きでつけた」という。
で、でも由来くらいはあるんですよね?
まあある事にはあるが……一説としてだけど……。
第1回で説明した坪内逍遥がいるだろう。彼が『小説神髄』を発表した時、露伴は二十歳だった。どういう伝手があったのか、小説神髄を入手したんだ。
小説神髄って、新しい小説の形を主張した評論でしたよね?
そうそう。それだよ。
それを北海道の片田舎で読んだんだね。これまでぼんやり暮らしていた幸田露伴は、凄まじい衝撃を受けたそうだ。「これこそ自分が生きる道だ!」って自分の人生を決意するくらいの衝撃だったというのだから、相当感激したのだろう。
それは……啓蒙書顔負けですね。
居ても立っても居られなくなった露伴は、すぐさま仕事を辞めて、東京へと戻ろうと考えた。しかし当時は交通の便が悪い。露伴が帰京を決意した当時(明治20年)なんか、当然北海道直通の鉄道はない。やっと郡山まで鉄道が開通したかどうかであった。それもまだ物珍しいから値段も高かったそうだしね。
となると、どうやって帰京したんですか……? 足ですか?
その通り。歩いて帰ったんだから根性がある。ちゃっちな連絡船で青森まで渡り、そこから昔の街道を沿って、江戸までてくてくと……。
てくてくと……。
やっとのことで、福島県二本松までたどり着いた……が、もうその時にはクタクタだったそうな。無理もない、北海道から何県もまたがって、ひたすら歩いてきたのだから……金もないからいい宿にも食事にもありつけず、本当に食うや食わずの旅だったわけだ。
それこそ決死行ですね……
しかも夜だ。昔の夜は漆黒の闇でそれは恐ろしいものだったそうだ。野犬はいる、泥棒はいる……でね。幸いその夜は提灯祭の夜で、店なんかも遅くまでやっていたそうな。フラフラの体でなんとか亀谷坂を登り切った露伴は、頂上の茶屋で餅を買い、それでなんとか腹ごなしをしたが体力の限界だったという。
まだ宿屋や繁華街までは距離がある。でももう夜は鎮まっているし、歩く力もない。祭で人々が往来に出ていただけでも相当な幸運だったといえよう。餅を食べた露伴は、「ここで野宿をしよう」と、数少ない財産であるこうもり傘を広げて、寝られそうな場所に横になった。
本当にその夜がお祭りだったのも、不思議な縁や強運を感じるくらいですね……それでも野宿でしょう……
その時、露伴はこんな事を思ったそうな。「ああ、野垂れ死にする時はこんな心持なんだろうな」と――そう考えると、不思議に一句浮かんだという。それが、
「里遠しいざ露と寝ん草まくら」
という。その後、露伴は無事に生き延びて、東京まで帰るのだが不思議とこの句を記憶していたという。
「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」ですか……
帰京後、露伴は「勝手に仕事を放って帰ってきた」と親父に叱られたそうだが、なんとか許してもらって、父の経営していた家業に潜り込んだ。そこで店員をしながら、作品を書き始めた。帰京から2年足らずで、処女作『露団々』を発表した。
その時、露伴は「里遠し……」の句を元に「露伴」という号をつけた、という。
へえ~それはドラマチックですね……!
ただ、これはどこまで真実なのかわからない。露伴が帰京の旅で苦労したのは事実だが、どこまでが真実で伝説なのか、今となっては……ね。すべて鵜呑みにも出来ない話である。
しかも、露伴亡き後、二本松の亀谷坂の近くに「里遠し」の句碑が立ったという。いいのかそれで……。いいのか。
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