その後、露伴は売り出すわけですね?
そうだね。若い頃から培ってきた漢籍や語学の素養に瑞々しい題材や古典を巧みに取り入れた小説で人気を集める事になる。文体や内容こそ、雅文に近い所もあったが、これまでの戯作や古典にはない思想や描写を巧みに取り入れたところに露伴の価値があるわけ。
中でも『五重塔』なんかは今も読まれる傑作、と言ってもいいだろう。明治文学きっての名文と謳われるほどだ。
尾崎紅葉と並んで称されたとか……。
紅露時代なんて一時はうたわれたほど。ある意味ではこの二人が元祖流行作家、と言ってもいいかもしれない。 ただその人気も尾崎紅葉が亡くなると次第に下火になり始める。
それはどうして……?
その背景には言文一致の完成で口語小説が主流になり始めたことや、自然主義やロマン主義がでてきて、露伴の形というものが古臭く見えてしまった――などある。
露伴は紅葉と違って長生きなされたそうですが、どうやって暮らしていったんですか……?人気が低迷するとなると……
露伴には巧みな文才と知識があった。それに教え上手で明朗な人柄も幸いした。小説の限界を見抜いた露伴は、小説から距離を起き、古典文学、中国の古典文学の研究へとシフトチェンジを図ったわけ。
古典とは意外なような、当然の帰結のような……
特に松尾芭蕉の研究と道教の研究に力を注いで、その道の大家になった。露伴にとって幸いだったのが、露伴が学術的に認められ始めた頃、日本は数々の不平等条約を撤廃し、近代化に成功して、曲がりなりにも列強に並び始めたという事だ。列強になった事で、日本国内では、これまでの欧化的な態度をいったん止めて、「もう一度自国を見直そう」という愛国的な盛り上がりが起こりはじめた。
そうした中で露伴は、多くの史伝やら評論や論文を発表した。古典から日本というものを考えて見せることによって、時代の流れにうまく乗れた、というべきかな。
なるほど……そういう時節的な運もあって、上手く生き残れたわけですね。
大正デモクラシー前後になると、全集とか円本と呼ばれる文学全集が盛んに発行された。当然、露伴は近代文学の第一人者として選ばれたわけ。この頃すでに多くの作家が物故したり、老衰する中で露伴はカクシャクとしていた。 そうした出版ブームの中で露伴は再び人気を集めるようになるんだ。リバイバルというべきかな。
その中で露伴は『運命』なんて小説を数十年ぶりに執筆して関係者を驚かせている。
出版ブームも味方をしたとは……すごいですねえ!
震災以降も衰えることなく、様々な研究成果を発表し続けた。特に古代中国に生まれて様々な影響を及ぼした宗教思想「道教」の研究は今なお不朽の研究、研究のパイオニアとして目されている。海外でも読まれたほどだった。
道教ってタオとか陰陽とかそういうやつですよね?
まあ、大まかに言えばね。その道教の神秘や構造に露伴は注目して様々な文献やら伝聞をまとめて、道教の道を模索しようとしたわけだ。
でもどうしてパイオニアと呼ばれるようになったんですかねえ?他国の宗教なのに……?
一つは中国という国が戦と王朝の交代続きで、そのたびに宗教やら思想が変わってしまってなかなか体系化なされなかったこと。王朝が変わった瞬間、昨日まで国教だったものが異教扱いになるなんてザラだったわけでね。そうなると関係書や文化財なんか焼き捨てられるわけで。
中国の古典なんかにも寺や城を燃やしたなんてありましたっけ。
もう一つは当時の中国がそこまで道教に注目をしていなかった事がある。もっとも日本をはじめ列強に睨まれ、更に国内のいざこざで思うように動けなかった――という事情もあるようだが。
なるほど……。難しい問題ですね。
皮肉にも日本の方に中国の書籍が残っていたりね。そうした資料の中から、露伴は古代中国を支えていた道教というものを探ろうとしたわけだ。その研究や考えが、流れ流れて戦後の陰陽やタオという概念のブームや認知に繋がった、と思うと露伴は相当な所に目をつけていたのかもしれない。
彼がいなければこの文化は後何年遅れていた……みたいですね。
そういう研究や功績、さらに良き理解者に恵まれたこともあってか、露伴は1937年に日本人初の文化勲章が授けられた。
権威と功績の頂点まで行きましたね……。
その後も露伴は生き続け、なんと日本の終戦まで目の当たりにした。大日本帝国が生まれ、規模を拡大し、暴走の果てに敗北する縮図をこの目で見たわけだ。
もうその生涯が近代日本の歴史そのものですね。
そうだね。故に「文学の生き字引」「一番文学の変遷を知り取り残されたもの」と評される事もあった。
へえ〜。
露伴は戦後も生き続け、1947年にひっそりと息を引き取った。80歳だから当時としては相当長生きだったといえよう。物資不足の中にもかかわらず、葬儀は派手に行われ、国会内で弔辞が読まれたほどというのだから大したものだ。
大往生ですねえ。
紅葉のように一門を形成して弟子を育成するような事はなかったが、かつての愛読者や学説に慕うものから敬愛されて、決して寂しいものではなかったそうね。ある意味では慕った人々が皆、露伴の門下生的な存在だったのかもしれない。
さらに、露伴には娘がいたんだが、この娘が凄まじい隠し玉であった。当人は作家になるつもりはなく、当初は父の思い出や逸話を気ままに書き綴るだけだったんだが、その文才、構成は素人離れしたものであった。周りから勧められて作家になるんだが――これが幸田文だ。
『おとうと』の作者でしたっけ?
そう。戦後を代表する女流作家だね。さらにこの人の娘の玉も作家として成功、その玉の娘、奈緒も作家として成功――と4代続いた作家の家になった。
幸田露伴の名を不動のものにしたのは、当人の功績もさることながら、娘や孫娘たちの奮闘や露伴への敬愛あってこそだったかとしれないね。
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