ボルクマンとシャンパンの祝杯
欧米留学から帰国した歌舞伎役者の市川左團次は、自由劇場なる新傾向の演劇集団を立ち上げることとなり、その記念として『ボルクマン』を上演する運びとなった。
岡田八千代『若き日の小山内薫』
木村錦花をマネージャにして、小山内薫や岩野泡鳴、岩村透などの作家や評論家、画家などを招いて舞台稽古をすることとなった。
しかし、歌舞伎役者の体質や楽屋内のしきたりなどで関係者は辟易し、さらに左團次の芸とボルクマンの解釈が人によって意見が別れてしまうので、いつまで経ってもまとまりがつかない。
そんなこんなで、開演が近づき、木村錦花は損失を気にするばかり。ここで不入りだったら、自由劇場をやめてドサ回りに行かねばならなくなる。
関係者たちも冷ややかに見ていたが、果たして開演してみると物珍しさが当たったのか、なかなかの大入り。
左團次も気が張ったのか、結構な熱演で、これまでごしゃごしゃ言っていた関係者も皆目を丸くした。
最後の幕が閉まろうという頃、「これはシャンパンだ!!!」と大声が響き渡った。
その声の主は、岩野泡鳴であった。
これを受けて、関係者一同は、売上の一部を拝借して、シャンパンをかきあつめ、有楽座の食堂でシャンパンの祝杯をあげることに至った。
これもまた良き時代の1ページである。
小山内薫と二代目市川左團次は、良い提携関係で、小山内薫の助言や監修の下、左團次は西洋演劇や、『歌舞伎十八番』の再演を行った。
その中には、失敗や対立もあったそうであるが、いくつかの企画は成功し、今なお演劇史で語り継がれている伝説もある。
市川左團次は、明治の「團菊左」と謳われ、近代歌舞伎中興の祖の一人「市川左團次」の嫡男であったにもかかわらず、古典芝居よりも新作や西洋演劇に興味を示し、歌舞伎俳優でも独自の活動と人気を展開した。
その背景には、左團次自身の芸質の問題や、洋行の経験があったわけであるが――そんな所から、左團次は歌舞伎役者というよりも「俳優」、「演劇人」というような側面が強かった。
同業者よりも作家や知識人と仲が良かったというのだから、やはり異端な存在である。
そんな左團次が、文壇や知識人から注目されるようになったきっかけの芝居『ボルクマン』にまつわる一席である。
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