田山花袋と「文士のメザシ」

文壇逸話帳

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田山花袋と「文士のメザシ」

 明治36年2月、田山花袋は家に咲いている梅の花がただ黙って散っていくのを惜しみ、自然主義の仲間、国木田独歩、川上眉山、小栗風葉、長谷川天溪、それに詩人の蒲原有明を呼んで、「観梅会」を催す事になった。
 決行は2月10日、会場は牛込の花袋宅の二階。花袋は貧しい中から酒を何升も買い、つまみをつけて、関係者をもてなした。
 みんなよく飲み、しゃべり、笑い、酔っぱらった。
 酔っぱらっていい気持になった一行、
「こう会うのも珍しいからどうだ、一つ写真を撮らないか」
 と、写真屋を呼んで一枚撮った。
 それを現像して一同は驚いた。何と梅の枝に挟んであった物干し竿が一行の頭を貫くようにして撮られていた。国木田独歩は呆れて、
「えらい写真だ。これは文士の目刺だ。」
 と警句を吐いた。そして、自分が小柄でそのメザシの列から外れそうになっている様子を見た独歩は続けて、

「背の低いものはどうしても損だ。どうだ、僕なんか目刺の中から外れそうになっている。」

田山花袋『東京の三十年』

 何かとぎすぎすした話題で語られがちの自然主義であったが、基本的には交友関係は豊かで皆、和気あいあいとしていたという。

 そんな彼らの面影を残す逸話であろう。このメザシの写真は、文庫版の『東京の三十年』の付録として掲載されているが、なるほど一同の後ろに物干しがあって、非常に面白くなっている。

左より、長谷川天渓、田山花袋、国木田独歩、川上眉山、小栗風葉、蒲原有明

 まさにメザシ、とはうまい批評であろう。

 これを花袋が回顧し、執筆をした時には既に、独歩、眉山は夭折し、小栗風葉とも絶交し、風葉は筆を折っていた。長谷川天渓は編集者や講師に転じており、僅かに蒲原有明が文壇に残っていたが、過去の人となっていた。

 そして、花袋も一応の地位こそ築いていたものの、既に過去の人になりかけており、「かうして時ばかり過ぎて行くのである。梅ばかりが徒らに白く咲いた。」と感傷っぽくまとめている。

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