二葉亭四迷の由来
では、二葉亭四迷の名前は何処から来たんですか?
そりゃ簡単で、やはり「くたばってしまえ」だよ。ただし、この「くたばってしまえ」は、自分を自嘲するためにつけたわけで、誰に言われたわけじゃない。
??
自分のどうしようもなさ、情けなさに呆れて、「くたばってしまえ」と自分を貶した次第――というべきかな。シャーリィ君がやるかどうか知らんが、人間というものは、大体こういうことをやるんだよ、「自分はバカだ」「愚かだ」って。
ないです!
う~ん、無いか。そういう自嘲、自虐精神から名付けたといいたいのだが……
昔の人ってのは、変わってますね?
そこに今も昔もない気がするが……そう純粋に受け止められる君がうらやましいよ、僕は。
それはそうとして、二葉亭自身は、この名前を連呼されるのが嫌いだったそうな。これも二葉亭の屈折がみられるね。「二葉亭と名付けたものの、こういわれるのは嫌だ」というプライドがあったと伝えられる。そして、小説を論じながらも「文士や作家と目されるの嫌だ」と語っていたそうな。ここに、二葉亭の難しさがあるね。
とにかく、この名前は、自分のだらしなさをあざ笑った名前ともいえる。「どうぞ情けない自分をお笑いください」的なね。それは当人も自覚して、きっちり明記をしている。お~、言の葉たちちょっといいですか~?
へ~い
そういうとチュン太先生は言の葉を呼び寄せて、本を持ってくるようにたのみました。
へい、お待ちどう~。
お、ありがとね。
それは……?
二葉亭四迷が自ら記した自叙伝『予が半生の懺悔』さ。この中に、自分の筆名の由来が書いてある。ちょっと抜き出して読んでみよう。
……併しこれは思想上の事だ。これが文学的労作と関係のある点はどうか。第一『浮雲』から御話するが、あの作は公平に見て多少好評であったに係らず、私は非常に卑下していた。今でも無い如く、其当時も自信というものが少しも無かった。然るに一方には正直という理想がある。芸術に対する尊敬心もある。この卑下、正直、芸術尊敬の三つのエレメントが抱和した結果はどうかと云うに、まあ、こんな事を考える様になったんだ――将来は知らず、当時の自分が文壇に立つなどは僭越至極、芸術を辱しむる所以である。正直の理想にも叶って居らん……と思うものの、また一方では、同じく「正直」から出立して、親の臑を噛っているのは不可、独立独行、誰の恩をも被ては不可、となる。すると勢い金が欲しくなる。欲しくなると小説でも書かなければならんがそいつは芸術に対して済まない。剰え、最初は自分の名では出版さえ出来ずに、坪内さんの名を借りて、漸と本屋を納得させるような有様であったから、是れ取りも直さず、利のために坪内さんをして心にもない不正な事を為せるんだ。即ち私が利用するも同然である。のみならず、読者に対してはどうかと云うに、これまた相済まぬ訳である……所謂羊頭を掲げて狗肉を売るに類する所業、厳しくいえば詐欺である。
青空文庫『予が半生の懺悔』
之は甚い進退維谷だ。実際的と理想的との衝突だ。で、そのジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』を作えて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取りは取ったが、どうも自分ながら情ない、愛想の尽きた下らない人間だと熟々自覚する。そこで苦悶の極、自ら放った声が、くたばって仕舞え(二葉亭四迷)!
世間では、私の号に就ていろんな臆説を伝えているが、実際は今云った通りなんだ。いや、「仕舞え!」と云って命令した時には、全く仕舞う時節が有るだろうと思ったね。――その解決が付けば、まずそのライフだけは収まりが付くんだから。で、私の身にとると「くたばッて仕舞え!」という事は、今でも有意味に響く。
ちょっと長くなったが、一口でまとめれば、「文学を志してみたが、上手くいかず、ジレンマだらけで立ち行かない。出版社との約束もある。その出版社の約束と小説の発行は、坪内逍遥の名義を借りている。変なものを出せば詐欺になる」という事になるかね。
そんな苦悶や自分の情けなさを「くたばってしまえ」に仮託したというべきかな。「こんな情けない自分は死んでしまった方がいい」と。
なかなか強烈ですねえ……。
こんな苦労の果てにどうにかこうにかひねり出したのが、『浮雲』だった。二葉亭本人は、「三馬、風来、全交、饗庭さんなぞがごちゃ混ぜになってる。」などと、旧来の作家の文章や文体を張り合わせて作ったように自嘲している。
江戸時代の作家さんを真似たんですか?
真似たというか……口語体で小説を作ろうにも見本がないから、出来るだけ口語体……話し言葉に近い小説をうまく合わせてそれらしくした、というべきかな。
因みに補足しておくと、三馬は市井の言葉や風俗を集めた『浮世風呂』の作者、式亭三馬。全交は江戸中期に大変な人気を博した芝全交。そして風来山人とは「エレキテル」で有名な平賀源内だよ。
え、平賀源内が……意外。
平賀源内は発明家の顔ばかり先行したがるが、実は筆の方も相当で、戯作や芝居の脚本なんかも相当書いている。当時は発明よりも作家として人気があったくらいだしね。
饗庭さんってのだけが明治の人で、饗庭篁村の事を指す。やはり明治の風俗を描写した作品で人気があったんだが……その人となりは、後で出てきたら話す事にしよう。後は落語や講談の速記とか噺ぶりも参考にしたそうだよ。
そういう苦労があって、口語体は生れたんですねえ……これがいわゆる言文一致のはじまりという作品ですか……?
そうだね。ただし、口語体の完成にもう少し時間がかかった。二葉亭のやったことは素晴らしい事であったが、ここからすべての小説が口語体に置き換わったという考えをすると地雷を踏む事になる。
それはどうして……?
何でも先駆者は奇人に見られるように、口語体という概念が新しすぎたからね。当時の文章は、口語と文語の分別が基本だったから、それらをまとめる事などできない――という認識さえあったほどで。後は、二葉亭当人も自嘲しているように、「切り貼り」や「変な言葉遣い」で笑われたのも事実だね。
上手く書けなかった、という事ですか。
今でこそホイホイ口語体を使いこなせるが、当時は口から吐く言葉と文語体をどう結婚させるか、という問題だけでも難工事だったわけでね……それ故に随分変な言い回しとか二重敬語臭いの小説とかできてしまったのさ。そういう苦労や失敗も口語体の下地になったわけだが。
発表当時は失敗も多かったでしょうね……文学に限らず発明はなんでもそうですが……。
実際、二葉亭も『浮雲』を何とか形にした後、色々と思う所があって筆を折ってしまった。出来栄えに満足しなかった事や、「理論では壮大な事を言いながらも、小説に変換知れなかった」という負の部分や力不足を見せつけられたからだろう。最晩年に『其面影』を書いて復活するまで、ロシア文学の翻訳家や評論家になってしまったのもまた、坪内逍遥同様の趣がある。
ただ、彼の試行錯誤が、良くも悪くも文学界に大きな電撃を走らせ、言文一致運動や口語体の小説の芽となり、実となったのは大きい。そこだけでも二葉亭の苦労はきちんと報われたといえよう。
二葉亭四迷は、他の筆名を持っていたのですか?
「冷々亭主人」「冷々亭杏雨」なんてのを持っていたという。「冷々亭」は、主に評論を使った名前でね、兄事していた坪内逍遥の『小説神髄』を発展させた『小説総論』という評論はこの名前で発表している。
二葉亭が坪内逍遥と似ているのが、小説よりも先に評論で認められた――という点だね。事実『小説総論』の方が余程立派で小説的な事を言っている――と評価する人もある。「勧善懲悪をやめろ、形とアイデイアの二本柱を大切にしろ、どちらかが欠けても駄目だ」とか今日でもある程度伝わる事をキチンと明記している。
そういう意味では、二葉亭四迷も「学者だった」所がありますね。
実際、「冷々亭」と名乗ったのは、自分の冷静な、悪く言えば冷酷で傍観的な態度をからめて、「冷々亭」にしたのではないか――という桶谷秀昭なんかは推測しているが、それはあるかもしれない。
ここまで大丈夫かな? とりあえず、二葉亭四迷の事をまとめてみよう。
1、二葉亭四迷は自嘲の為に「くたばってしまえ」をもじった。父に言われた説はデマと考えられている。
2、二葉亭四迷もまた小説改革に乗り出し、『浮雲』で言文一致小説や口語体の小説を発表したが、出来栄えに満足できなかった。しかし、その試みや意志は仲間や後輩たちに受け継がれた。
3、「冷々亭」は評論で使っていた。自分の冷静な性格や対応を自認して名付けたという説がある。
これでお分かりかな?
よくわかりました!
シャーリィが大きくうなずくと、例の本が光を放ち始めました。
あ、本がまた光ってますよ!
宙に浮いたかと思うと、自分でページに記事を記録し始めたのです。
事が終わると、また静かに、新たなページを生みだしました。
これで次に進めるか。
そうですね。それにしても、二葉亭四迷が自分の筆名を嫌っていたのが意外でした。
僕もよくわかるよ。ちゃんとした名前があるのに、雀みたいだからってチュン太先生なんて呼ばれるのは……
?? なんか言いました?
なんでもない……
コメント