ゴイサギと能楽研究者・野上豊一郎

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ゴイサギと能楽研究者・野上豊一郎

 野上豊一郎は能楽研究の傍ら、自分でも能楽の稽古を行った。
 しかし、若い頃は兎に角悪声で音痴だったというのが、おかしい。友人の作家・小宮豊隆によると、「野上は散々悪声と冷やかされながらも、迷うことなく己の道を進み、悪声をも武器にした謡を練り上げた」。
 しかし、若い頃のそれは本当にひどかったそうで、1909年3月14日、去る会で、野上豊一郎の謡を聞いた師匠の夏目漱石、そのまずさに甚だ閉口して日記にこう記した。
「(野上は)五位鷺(ゴイサギ)の如き声を出す」。

『夏目漱石日記』

 野上豊一郎は、夏目漱石門下の秀才であった。

 妻は100歳まで生きた女流作家の大御所・野上弥生子で、間にできた息子3人は、京大・東大と日本最高レベルの大学教授に就任するなど、優秀揃いであった。

 能楽や日本の伝統文化を欧米諸国に広めた功績は大きく、特に能楽の研究は、余り地位の高くなかった芸能史全体の地位を押し上げ、一躍能楽を学問領域にまで持ってきたほどである。

 また、戦後直後に法政大学の総長に就任。戦争で荒れ果てた学校に進駐軍の教育改革の荒波をさばき、傷ついた生徒や講師、教授たちをよくまとめ、「名総長」と謳われた。その功績を記念して、今も法政大学には「野上記念法政大学能楽研究所」という建物と施設が残っているほどである。

 さて、そんな野上豊一郎であるが、若い頃は作家志望とだけあってか、なかなか洒脱であったという。

 漱石の懐の広さに甘え、小宮豊隆、安部能成、岩波茂雄といった同門たちとふざけたり、喧嘩するだけの余裕や洒落っ気もあったという。

 漱石は、真面目な豊一郎にある程度の信頼を置き、まめに手紙やアドバイスなどを送っていたというが、共通の趣味であった能楽と謡には音を上げたというのがおかしい。

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