常識がない?河東碧梧桐

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常識がない?河東碧梧桐

 正岡子規は、後輩の高浜虚子、河東碧梧桐を弟のように可愛がったが、一方で二人の性格的な欠点もよく見通していた。
 ある時、子規は、

「内藤鳴雪翁は常識あって常感がない、碧梧桐は常感があって常識がない」
 とぼやいた。弟子の坂本四方太がこれを聞いて、
「それでは某は常識なく常感もないというのも出来ているのではないか」
 と反問すると正岡子規は苦笑した。そして呟くように、
「碧梧桐は常識がないわけではないが、一つ欠けたものがある。常人ならば羞恥の観念から当然隠さねばならぬところを、少しも臆せず、平然と暴露して喜ぶというようなところがある」。
 この発言より少し前、碧梧桐は新婚旅行で行った奈良の思い出を、新婚ほやほやのイチャイチャや愛の言葉を混ぜて写生文とし、皆の前で読み上げた事があった。
 子規はそんな碧梧桐の態度や作風を案じていたという。

『子規言行録』

 河東碧梧桐は、正岡子規の高弟で、子規一門と手を取りながら、「俳句運動」に力を注いだ人であるが、子規亡き後は親友の虚子と反目し、「新傾向俳句」と称した無季語・自由律の方向へと流れてしまった。

 今日、河東碧梧桐の評価が虚子に及ばないのは、どうしてもこの子規からの「伝統俳句」の流れから逸れてしまった事、様々な表記や表現を考案したものの、殆どが上手く行かなかった事などが上げられよう。

 自由律や新表現を謳いながら、結局残った一番の代表作が「赤い椿白い椿と落ちにけり」という旧式のスタイルというのも、なんだか皮肉を感じてしまう。

 一方、この新傾向俳句への挑戦は決して無駄ではなく、虚子たちに「伝統俳句」「花鳥諷詠」の理念を確立させるアンチテーゼとなった他、かつての同胞・荻原井泉水門下から「尾崎放哉」「種田山頭火」といった今日名を遺す「自由律俳句」の名人たちを生み出したきっかけとなった。

 今日の自由律があるのは、河東碧梧桐の行動や挑戦が元になっているといえるだろう。「アンチテーゼ」として評価するだけでは惜しい人材である。

 そんな碧梧桐は、虚子と並べられた――とは有名であるが、その情熱的で行動的な態度から「碧梧桐は火の如し、虚子は水の如し」と評されたという。

 師匠の子規が碧梧桐ではなく、虚子を後継者に選ぼうとしたのは、「水のように」冷静で、見方次第では保守・朴訥に見える人物の方が、自分の理念を守ってくれると確信したからではないだろうか。

 上のそれは、碧梧桐と子規の価値観の違いを考えさせてくれる逸話であろう。

 皮肉になるが、この程度で子規が怒るなら、今日の恋愛小説や随筆見たら、子規は死んでしまうだろうね。

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