なぜこの論文を書くかで五〇〇〇字以上埋めた、島村抱月

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なぜこの論文を書くかで五〇〇〇字以上埋めた、島村抱月

 文芸評論家、演出家として名をはせ、最後は松井須磨子との恋に走った事で知られる島村抱月であるが、若い頃は西洋文学を論じ、自然主義を愛好するなどバリバリの文学青年であった。
 新聞記者の傍ら多くの評論や作品を発表し、一躍人気作家となった抱月は、母校・早稲田大学に招かれ講師となった。さらに早稲田大学の金でロンドンやベルリンの大学へ留学する等、学術的な幸福に恵まれた。
 在欧中に本物の西洋文学や美術に触れた島村抱月、自ら信ずる自然主義の道のすばらしさを理解し、これを何とかして論じようと執筆にとりかかった。
 帰国後、これを本格的に論文に起こし、『懐疑と告白』と題して発表する事となった。「自然主義の告白とは何か」を考えるという重々しい論文で、抱月の労作であった。
 発表されて、自然主義も反自然主義もこぞってこれを読み漁ったというが、一読してみなあっと驚いた。
 文章のうまさや論理に感動したからではない。
「なぜこの論を公表するのか」という弁明だけで原稿用紙10枚を悠々と超え、それだけで相当な紙数を使うという荒業をやり遂げたからであった。

『読売新聞』(1909年8月29日号)

 島村抱月というと、演劇演出家であり、女優松井須磨子との情熱的な恋として知られ、インフルエンザをこじらした末の急逝は松井須磨子の自殺の引き金となったとなった――という形で論じられる。

 確かに、演劇演出家として著名だったのは事実である。明治末に坪内逍遥から独立をして、松井須磨子を中心とした「芸術座」を結成、『サロメ』『復活』『マクベス』などを手掛けて、日本の演劇界に衝撃を与え、『復活』の中で取り上げた「カチューシャの唄」は日本初の流行歌、ヒットソングとして今なお論じられる。

 そんな島村抱月であるが、若い頃は自然主義擁護派の一人として知られていた。

 坪内逍遥を師事し、坪内論じる「写実論」を受け継ぎながら、これを発展させ、「写生こそ小説、故に自然主義はいい」的な論を張り、自然主義全盛の旗振り役となった。

 その代表的な論文が『懐疑と告白』である。今も島村抱月全集などで読めるが、兎に角弁解が長い。

 しかし、こうした弁解もまた「己を語る」ということをあまりしてこなかった日本の文芸界における処世術ではなかったのではなかろうか。それにしても五〇〇〇字とはねえ……

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