内田百閒の苦手な人

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

内田百閒の苦手な人

 内田百閒は、とにかく我が強く、小説でも私生活でもわがまま放題で過ごした。大体は百閒が振り回す側で、周囲は振り回されるのが常であったが、その百閒を数少なく振り回せたのが、兄弟子の鈴木三重吉であった。
 ある時、神宮外苑を二人で散歩した際、百閒はいつものくせで口にくわえた煙草をポイ捨てした(当時は別に問題がなかった)。
 それを見た鈴木三重吉は見る見るうちに機嫌が悪くなり、
「そりやいかんよ、いけないと思ひませんか。かう云ふ所でさう云ふ事をすると云ふ法はない」
 と、腹を立てた巡査のような目つきで百閒を怒鳴りつけた。
 驚いた百閒は己の不注意をわびたが、三重吉は頑として一言。
「吸殻を拾いなさい!」
 吸殻を拾って、散歩を再開すると、今度は百閒の借金癖や浪費を批判し始めた。
「一時にカツレツを八枚も食うから貧乏をするんだ」
「自分などは味噌汁を作って、その中にこま切れを入れて、何日もそればかり食べていた。心がけが悪いから貧乏をする」
 などと、いいたい放題いう。
 そのくせ、小言を言い終えた後、チャンと金は貸してくれたというのだからおかしい。
 百閒はそんな三重吉の「カツレツ八枚」という文句を「便利な発声語」として使っていたと皮肉り、「カツレツ八枚食ったなどは大昔の事で、そんな事を言えば鬼子母神の雀料理屋で寒雀を35羽食ったことがある」と謎の自慢をおっぱじめる。
 漱石健在時、漱石山房で聞いた話を三重吉は執拗に覚えていて、当時の逸話を今と同じと早合点して、百閒を皮肉りまくったというのだから凄まじい話である。
 百閒は、追悼記事の出だし早々「三重吉先生は憎いおやぢ」とまで書いている。相当苦手だったのだろう。

内田百閒『鈴木三重吉氏の事』

 夏目漱石の元には多くの若者や関係者が集い、いわゆる「漱石山脈」を築いたが、門下生が全員が全員仲が良いというわけではなく、一定の断絶はあった。

 いい例が松根東洋城は、古い友人である寺田寅彦や数人の若手を除いてほぼ嫌われており(小宮豊隆はなんだかんだ交友があったが、鈴木三重吉などは嫌悪していた。また一時期仲間であった高浜虚子とも絶縁した)、松岡譲と久米正雄は夏目漱石の娘を巡って絶縁し、久米が松岡の恋路を暴露した私小説を書いて排斥するなど、門下生だからとて仲がいいというわけではなかった。

 内田百閒は、基本的にどの派閥にも属さぬ、良くも悪くも我を貫くタイプであったが、酒癖と小言の長い鈴木三重吉だけは本当に苦手であったという。

 我が強い若旦那と酒癖と潔癖の大先生ではまず合わぬのは請け合いという所か。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました