前進座の看護師役・市川莚司(都新聞芸能逸話集)

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前進座の看護師役・市川莚司

前進座の莚司は、看護長の肩書があるだけに、医務班は一手引受けで、病人が出ると一応彼が診察し、彼が首をヒネるに至って本職の医者の方に廻るといふ順序だが、この頃風邪引き相継いでなか/\多忙、ところで患者達の言ふ事に、何とか君の手のうちで癒してくれよ、莚司センセイに匙を投げられると、其後は、物事がカンタンに行かなくなるから

1935年2月12日号

 市川莚司とは聞きなれない名前であるがその正体は戦争体験記『南の島に雪が降る』の作者であり、長門裕之・津川雅彦兄弟の伯父である加藤大介である。

 戦後は映画・ドラマの名脇役として知られた彼であるが、出身は意外にも歌舞伎である。

 1933年に一度兵役を受けて、数年ばかり俳優業を休んでいた。この時、看護兵としての教育を受けたらしく、これが太平洋戦争まで持ち越される事となる。

 1943年、太平洋戦争の激化に伴い、応召を受ける。南方戦線に送られ、九死に一生を得た。この時の記録が自伝『ジャングル劇場の始末記 南海の芝居に雪が降る』である。

 ちなみに、前進座は、市川左團次劇団にいた河原崎長十郎と中村翫右衛門、河原崎国太郎などが「新しい歌舞伎の改革と旧弊な歌舞伎界の打破」を建前に立ちあげられた劇団である。

 河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎国太郎が三頭目となり、劇団の運営が行われていた。特に長十郎、翫右衛門は社会主義やマルクス主義への理解や傾倒があった事もあり(後年共産党へ一斉入党し世間を騒がせた)、「団体で決起して、みんなで生活を成り立たせよう」という集団生活や協力をヨシとしていた。

 吉祥寺に大きな集団生活場を設け、一座で共同生活を行った。畑を作り、家事や炊事を分担し、その中で稽古や企画の打ち合わせを行っていたというのだから、元祖シェアハウスである。

 集団生活を旨とするためか、「出来る事は出来るだけ自分達でやる」ということを掲げていた。そのせいか、加東大介は臨時の医者役としてしょっちゅう駆り出されていたという。

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