樋口一葉のなけなしの香典

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樋口一葉のなけなしの香典

 樋口一葉は大変な貧乏で、その生涯貧乏神に付きまとわれていたのは言わずもがな、であるが、その貧乏の中でも義理や人情を欠かせない所に、一葉の真価があったという。
 明治26年4月18日、知り合いで当時の一流学者の一人「関根只誠」が亡くなった。それを新聞で知った一葉は、なんとかして葬儀に行き、香典を差し出したいと考えたが、「家は只貧せまりにせまりて、米しろだに得やすからぬ」惨状のために、その香典も工面できず、妹の邦子と嘆くばかりであった。
 邦子は「自分の着物を売る」といって、一葉と喧嘩になり、母が仲裁に入った。結局、近所の西村という家から一円を借りて、葬儀に出掛けたが、その香典をまた返すのが大変だったという。
 一葉の死後、この逸話を知った国文学者の上田萬年、同僚で関根只誠の息子の関根正直を呼び出して「君の父が死んだ時、一葉君はこんな事をしたそうだが、君は樋口の家に何か持っていったか」と大マジで聞いてきたため、関根正直は頭を掻いて困惑するより他はなかったという。
 こういう所に、一葉の優しさと悲しみがあふれている。

『よもぎふにつ記』『一葉全集』

 樋口一葉は兎に角貧乏であった。その貧困ぶりは、「樋口一葉日記全集」などをみるとよくわかるが、並大抵の貧困ではない。

 単なる貧民ならば、その日暮らしで慎ましく暮らせたかもしれないが、彼女の「士族の娘」という生れた地位や、作家としての名声が、ますます人づきあいや義理を増やす羽目になり、家計を圧迫したのは何とも皮肉な話である。

 一葉が、多くの文豪と付き合いながらも、その多くを「不愉快な奴」「嫌な人」と日記の中で切り捨て、文学界の嫌われ者であった斎藤緑雨を一番贔屓にしたという背景には、一葉も緑雨も「貧乏士族の子供で、売文して家族や兄弟を養わねばならない」という共通の哀しみを背負っていたからではないだろうか。

 上田萬年の皮肉の中には、斎藤緑雨の無念や「作家だ、女流だとちやほやするけど、本当に彼女の優しさや心へと恩返しした人間がどれだけいるのだろうか」という、一葉の複雑な境遇が織り交ぜられているような気がしてならない。

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