耳鼻科へ来た吉右衛門・彦三郎と大島伯鶴(都新聞芸能逸話集)

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耳鼻科へ来た吉右衛門・彦三郎と大島伯鶴

人形町のある咽喉科医院の患者待合室で、吉右衛門、彦三郎、それに講談の伯鶴が偶然落ち合ふ、三人共、近頃声の調子が出ないので治療を受けに来たのだが、彦三郎と伯鶴は、どつちもあの偉大な体格とて、ガンガン割れるやうな声で世間話を始める、一番先に診察を終へて帰つて来た吉右衛門が、君たちは何処が悪くて此の医院に来たのです?

1934年2月13日号

 中村吉右衛門は「趣味が病気」と揶揄されるほどの虚弱体質(神経質さも含め)で、多くの医者と交友を持っていた。

 少し熱が出ると布団にこもり、出先で体調が悪くなると先生を電報で呼び、声が変になると医者に飛んで行った――その為、東京や大阪の名医には詳しかったというのだからおかしな話である。

 そんな繊細な吉右衛門に比べ、坂東彦三郎は健康優良を絵にかいたような人物で、その体格と言い、声と言い、相撲取りのような男であった。余りにも恰幅が良すぎて、兄の菊五郎共々「痩せなさい」といわれたことがある程。

 些か鈍な所から「ヌーボー」と揶揄されながらも、歌舞伎界随一の大声と貫録の持主として知られていた。

 伯鶴とは戦前講談界の名人、大島伯鶴である。非常にユーモアで明瞭な講談を得意とし、戦前は何軒も寄席や劇場を掛け持ちし、連日放送にでるほどの人気者であった。

 その伯鶴も、また彦三郎に劣らぬ見事な恰幅の持主で、講談で鍛え上げたデカ声の持主であった。如何せん劇場の独演会、何千という客を前にしてもマイクを使わずに声が届いたというのだから、相当な声である。

 そんな二人が、弱弱しい吉右衛門を差し置いて、馬鹿に大きな声で雑談をしている――吉右衛門はどう思った事だろうか。

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