精神力で生きた嘉村磯多

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精神力で生きた嘉村磯多

 嘉村磯多は近眼で青白で、いかにも病弱という風貌の持ち主であった。病気持ちだったこともあってか、その性格は大人しく、いつでもどこでもおずおずと申し訳無さそうに話す人物であった。
 そのくせ小説ではどこまでも暴露し、罪深さを漂わせる絶望的な小説を得意をしたのだから意外である。
 若い頃から結核を患っており、これが命取りとなった。おずおずとした性格はそうした所から来たのではないかという説もある。
 何度も倒れてはそのたびに死ぬと案じられたが、昭和八年冬まで生きた。
 最後は昭和8年春先に倒れ、寝返りも打てないほど悪化したが、それでも生き続けた。
 新潮社にいた楢崎勤は、あれこれと便宜を図り、呼吸器の医者、成川ドクターを派遣するなどした。
 その年の冬、楢崎のもとに夫人が現れ、「先程、嘉村が息を引き取りました」と伝えた。
 楢崎は、仕事もそこそこに関係者に連絡を取り、葬儀の準備をした。
 そして、成川ドクターの所へ死亡診断書を貰いに行くと、成川ドクターは「こんな患者は本来ありえない」と感慨深く言う。
 どうしてだ、と尋ねると、
「この人の肺は左右とも肺結核に侵されていて、呼吸できない状態にある。本来なら死んでいておかしくないのに、彼は一年近く生きた」
 と説明し、
「彼は精神力で生きていたのかもしれない」
 と呟いた。

楢崎勤『嘉村さんのこと』

 嘉村磯多は大正から昭和にかけて活躍した私小説作家である。

 大地主の倅に生れながら、家のメンツや望まぬ結婚に苦しみ、最終的に駆け落ちをし、小説家になったという代り種であった。

 そのせいか、故郷へは憎悪と望郷を持っていたともいう。

 キリスト教や仏教といった自律的な宗教や戒律にハマり、当人もそれに強い影響を受けたが、事もあろうか、小説の先生は破滅的で知られた葛西善蔵であった。

 酒乱に暴力に理不尽と極める葛西善蔵によく仕え、その中で小説を書き上げた。

 そうして生まれた作品は、貧困や人間の醜悪を徹底的に暴き出した「私小説の極北」ともいえるものであった。その生々しく留まるところの知らぬ小説は見るものを震え上がらせ、絶賛を受けた。

 しかし、評価された時には既に嘉村の命の灯は尽きようとしていた。そんな嘉村の根性と精神を伺わせる、最期の哀しい話である。

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