風呂を買って風呂禁止令を出された玉井の可楽
湯好きの藝人も多い中に、どこの湯屋のペンキ絵は箱根だとかこの頃カランの数が三つ減ったとかいふ事迄知つてゐるお湯通の三笑亭可楽、念願叶つて風呂を台所の隅に据えつけ、嬉しがつて湯にばかり入つてゐるのでたうとう去年の暮には風邪をひき、一寸よくなるとまた湯に入つて病戻りをする始末に、お神さんが癇癪を起し「今年はもう湯へ入つちやいけません」
1941年1月7日号
玉井の可楽こと七代目三笑亭可楽はある程度しっかりした腕を持ちながら、なかなか売れず貧乏暮らしを続けていた。
家族には余りに恵まれず、唯一成人した息子には家出され、妻との関係も複雑であった。可楽の芸人道楽のせいといえばそれまでかもしれないが……。
そんな可楽は俳句と風呂に癒しを求めたという。俳句の腕前は相当で、落語家仲間の宗匠になる程。一方、風呂が趣味だというのは意外だった。
この頃、可楽は安藤鶴夫に見出され、「可楽を聞く会」などを催し、徐々に売れて居た頃であった。この二年後、事故で彼は死ぬが敗戦を知らずに死んだのは幸せだったか否や。
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