縁起を担いでも粗忽な桂小文治 (都新聞芸能逸話集)

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縁起を担いでも粗忽な桂小文治

去年、柳家つばめの死を云ひ当た姓名学のさる先生が、桂小文治の本名祐次郎を見て、この名のまゝでゐると余命いくばくもない、と予言したのでブルブルと震へ上つた桂小文治、こゝ一二年のべつ患つてゐるので愈々ご幣を担ぎ、先生に頼んで長生きの出来る名をと、つけてもらつたのが「祐弘」といふ名、改名したあくる日銭湯へ行つて秤にかゝつたら目方が一貫目も増えてゐるのに、あまり不思議とよく考へて見たら、いつも裸でかけるのを、其日は着物を着てゐましたんや、はやつぱり落語家

1941年3月2日号

 桂小文治は東京落語界の重鎮的存在として戦前からブイブイと言わせていた。懐の広い人格と器用な芸風から重宝され、戦後まで長い影響力を持った。

 非常に常識的な一面を持ち、「どんな弟子でも責任を持ってみる」という落語からしからぬ整然さを持っていた男であるが、一方でものすごい粗忽であったという。

 そそっかしいのは並大抵ではなく、着物や服を忘れるのは当たり前、鼻をかもうとして紙幣を取り出して鼻につけたり、他人の下駄を履いて行って大騒動を起こしたりと、数限りなくある。

 そのくせ、やたらに慎重で小心な所があり、占いや迷信をよく信じていた。このちぐはぐさも、愛される要因であったと聞く。

 ここで取り上げられているつばめとは三代目柳家つばめの事。音曲噺で売れた人物であるが、1940年に夭折している。

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