大物浦に小物浦(都新聞芸能逸話集)

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大物浦に小物浦

「船弁慶」に出る連中が集合室で出幕を待つてるうちに家橘が、どうして摂州大物浦の場といふのだらう、と藪から棒に云いひ出した、居合せた彦三郎が、それは何んだヨ、つまり羽左衛門、幸四郎、菊五郎、勘弥などの大物ばかり出るからさ、これを聞いた豊が、では僕たちが出ると小物浦ッテ云ふんだね――料理屋のお通しぢやあるまいし

1932年1月20日

 大物浦は源義経が平家討伐の船出をした場所として知られ、古くから源平合戦の舞台の一つとして取り上げられてきた。

 義経千本桜で平知盛が錨を投げて自決を計るのも、船弁慶で義経一行が知盛の霊に苦しめられるのも皆、大物浦である。

 なお、読み方は「だいもつのうら」であって「おおもの」ではない。大物とは古語で木材とも(港から木材を運んでいた様子から大物浦)、牛ともいわれている(地形が牛に似ているから)。

 それを「大物・小物」に変換して、それらしくいう英ちゃんの坂東彦三郎の顔がありありと浮ぶようである。この人、こういった洒落や冗談がうまく、いつも若手や仲間をからかっていた。

 共演の家橘は夭折した十六代目市村羽左衛門、豊は人間国宝になった二代目尾上松緑である。

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