尾崎紅葉の父・谷斎の死

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尾崎紅葉の父・谷斎の死

 尾崎紅葉の父、尾崎谷斎はフグを食べて死んだ、と伝えられており、Wikipediaや各書籍にも「死因はふぐ中毒死である。遊び仲間の講談師ら3人で品川に漁に行きその場で船頭に料理させて食べ、当日晩に亡くなった。」とまで書かれているが、これは嘘だという。
 尾崎親子と仲が良かった粋人・鶯亭金升は、以下のように回顧している。

京橋加賀町の頭(消防夫)の供をして両国でフグを食ったら、頭が中毒でその夜死んでしまった。
谷斎はひどく気に病んでしまい「頭をすすめてフグを喰った、私が残っては相すまない」とふさぎ込んで、まもなく病に冒され死んでしまったという。

鶯亭金升『紅葉山人と美妙斎の思い出』

 明治文学を代表する大御所、尾崎紅葉。どちらかというと慇懃で、文学発展や弟子育成に尽力を注いだ紅葉の父、尾崎谷齋は大変な粋人であった。吉村武夫「明治粋人奇人談」にその逸話や粋狂ぷりが出ている。

 本職は根付師で、鹿角の彫り物を中心に、多くの佳作を生み出した。天才的な職人であり、根付界のカリスマ的な存在であったが、遂に「根付界中興の祖」となり得なかったのは、その奇人振りと粋狂にあるという。

 仕事をさせれば多くの買い手が現れる人気職人のくせに「仕事はやりたくない」と、月に何個か作れば御の字で、まるで作らない時もあったという。仕事よりも遊びが大好きで、書画骨董に、芝居に寄席、詩歌に茶の湯、酒宴と、そちらに熱を上げた。

 また、赤い着物を着てちゃらちゃらと繁華街に出て愛嬌を振りまく所から、「赤羽織」と綽名された。曰く、「着物は当時流行の唐桟織で、その上に赤い羽織と赤い頭巾を身につけていた」( 「明治粋人奇人談」 )というのだから、生きた大黒様かエビス様のような格好であるよ。

 根付仕事をそっちのけに、赤羽織を身にまとい、寄席や芝居小屋、角力小屋に顔を出しては、贔屓筋や旦那に愛想や笑い話などを振りまく。その取り持ちの良さ、面白さから贔屓は多く、わざわざ谷斎を呼んでいく人もあったというのだから呆れた話である。

 その媚びにも近い態度は、一部の連中から顰蹙を買い「幇間崩れ」「谷斎坊主」などと、軽蔑されていたという。紅葉もその一人で、仕事そっちのけでお愛想を取結ぼうとする父の姿をよく思わず、生涯にわたって父の存在を明らかにする事はなかった程。

 もっとも、谷斎もせがれほったらかしで、死に別れた妻の両親(紅葉から見れば祖父母)に養育を押し付けていたため、憎まれても当然な所はあるが。

 そんな谷斎は最後フグを食って死んだ――と伝説になっており、「明治粋人奇人談」 「新撰 芸能人物事典 明治~平成」を見ても、「明治27年組頭と、ステテコ踊りで有名な三遊亭円遊の3人で両国でフグを食べ頓死。」と明記されているが、実はこれは嘘である。

 その反証が、上の鶯亭金升の回顧録というわけであるが、明治のゴシップ雑誌『東朝』)にも、谷斎の訃報が紹介されていて――それを見ると、フグで死んだとは書いていない。曰く、

「象牙彫の名人と称され、太鼓持の変り者と呼ばれし赤羽織の谷斎は竹頭と共に綳魚(※フグの事)を食ひ、竹頭は其毒に中りて仆れしより甚しく神経を悩め、爾来以前の元気もなく打萎れゐたるが哀れやそれが病の本となり、終に一昨日竹頭の跡を追れて黄泉へ赴きたりといふ。」

 とある。これだけ見ると、普通に「仲間とフグ食いに行ったら仲間が死に、それを気に病んでいたら病に罹患し、死んでしまった」——と、心因的な死で語られている。

 少なくとも「ふぐ中毒」で卒倒したとは書かれていない。

 なぜ「ふぐ中毒」扱いになったのか、謎が残る所であるが、それ以上に謎なのが「すててこの三遊亭円遊もふぐ中毒になって一緒に死んだ」という記載である。

 円遊と谷斎が仲が良かったのは事実であるが、この円遊は明治40年までフツーに生きているし、その最期も普通の病気(?)だったはずである。

 少なくとも、ふぐ中毒ではないんだが、どうしてこうなってしまったのだろうか。

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