何処から来たりし国木田独歩

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何処から来たりし国木田独歩

 国木田独歩は女流作家の榎本治子と結婚し、その間に数人の子供を儲けた。その中の一人が詩人で、人気モデル・国木田彩良の曽祖父、国木田虎雄である。
 独歩が死んで幾年月、ある時「国木田独歩は連れ子ではなかったのか?」という噂が出回り、家族は追い回される羽目になった。
 治子が虎雄の家を訪ねると、虎雄は暗い顔をして「写真を見ても、収二おじさん(独歩の弟)は、おじいさん似だが、親父は全然タイプが違う。第一戸籍謄本が真実を証明すると言われては僕もそれを否定する自信がない」とこぼしてきた。
 虎雄によると「戸籍では連れ子扱いになっている」という。
 治子は「たとえ戸籍がそうなっていても、おじいさんの子です」と、虎雄を慰めた。
 それから月日が流れ、昭和二十年七月九日の夜、岐阜に疎開していた治子は、今日来るか明日来るかしれぬ空襲に怯えながら、家財道具一式をどうするか考えていた。

 岐阜に来たものの知人はなく、預ける家もない。せめて大切なものは裏の神社の境内に埋める――という事になった。
 その前日、治子が荷造りをしていると「せんはちめんじよ」と書かれた薄汚れた箱が出てきた。上書きを何度も確認しながら見ると、それは国木田独歩の父、国木田専八(貞臣)の免状や書類一式であった。
 埃を払いながら見てみると、辞令や免状の中に戸籍の原本があり、そこには先年虎雄がいったように、
「亀吉実父 淡路某」
 とあった。それを見て飛び上がった治夫人は感情を抑えながら、在りし日の独歩や姑の発言を辿っていった。
 すると思い当たったのは、姑から聞いた話、
「実は私(姑)は、国木田へ嫁に来る前、婿をもらったが気に入らず家出して、相撲の家に住んでいたことがある」
「専八は国許に妻子がいたが、離婚をした。しかし籍が抜けきれず苦労をした」
 という話。治は「事情があって実子を連れ子扱いにしたのではないか」と結論をつけて、安堵した。
 その直後、けたたましい空襲警報のサイレンが鳴り響き、岐阜の街は火の海に包まれた。
 治は娘たちと火の海を逃げ惑い、なんとか命拾いをしたが、家も先程の書類一式も皆灰にしてしまった。
 治は、「もう十年も前に議論されだしていたら、姑の妹が千葉の藤枝の家に健在だったから、生き証人になってもらえただろうに」と、その無念を綴っている。

国木田治『夫独歩の謎』 

 国木田独歩は、日本の自然主義・ロマン主義作家の第一人者で、主に自然主義や写実小説に大きな影響を与えた一人である。

 病苦の為、大作・大河作品こそ残さなかったが『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』などは、今なお読み継がれる名作として知られている。

 そんな独歩であるが、その出自は今なお謎が多く、長い間論争のタネであったという。

 近年の研究でやっと「国木田専八と淡路まんの子供」という論が一般的になったようであるが、子供や孫が年々物故し、当事者と関係のある人物や血縁もどんどん少なくなる中で、何処まで真実だか――という現実に直面している。

 そうした「国木田独歩」の謎は、古くからネタにされてきたが、「実は収二や妹弟とは違う子ではないか」という真実を明かした記念的な告白である。

 如何せん、その真実を知った治子や虎雄の苦悩たるや――今以上に苦しんだのではないだろうか。

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