親心のある岸田國士

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親心のある岸田國士

 岸田國士戯曲賞で今も名を残す岸田國士は、文壇きっての紳士であった。
 めちゃくちゃな家庭環境を築く作家が多い中で、岸田國士は娘たちを溺愛し、言葉遣いやマナー以外では娘たちの自主性を許した。その一人が女優として売れた岸田今日子である。
 1942年夏、岸田國士の妻が亡くなった。長らく病気に伏せており、最期は苦しみながら死んだという。
 臨終間際、妻はひどく苦しんで錯乱の中で死んでいった。普通ならば子どもたちを並ばせるものだろうが、岸田國士は、
「母が苦しむ姿はもう見てきた。最後の最後まで苦しむ様子を見る必要はない」
 と、自分と妻の兄弟たちだけで臨終を看取った。
 そして朝になり、子どもたちが起きるとその事実を伝え、母親と最後の対面をさせた。
「きれいだろう。よく見ておきなさい」
 子どもたちは死化粧をした母親を見て、最後の挨拶をした。
 すると、母親のかけてある羽布団が濡れ始めた。今日子たちが顔をあげるとそこには声を殺して泣く父の姿があった。
 その姿を見た今日子たちは、初めて母がもうこの世にいないことを悟って、わんわん泣き出した。
 後にも先にも岸田國士が家族の前で涙を流したのはその時だけであったという。

岸田今日子『父が怒ったこと、泣いたこと、笑ったこと』

 岸田國士は陸軍士官学校を出、少尉にまで上り詰めた軍人作家であった。

 ただ、当人は軍人の気質や環境をひどく厭っており、文学の道に志があった。長らくその道を果たせぬままいたが、成人後、親の反発を押し切ってヨーロッパへ渡り、そのまま作家になってしまった。

 小説家としても成功したが本領は演劇にあり、多くの傑作を残し、演出論や演劇論を出して世に問うた。

 一方、軍人上がりで友人や先輩に軍人や官僚が多かったことから、戦時中は盛んにその立ち位置を利用された。当人も愛国心を持っていて、その為に働いていた一面もあったが、戦後必要以上に戦犯扱いされたのは不遇というより他はなかった。

 そんな岸田國士であるが、娘には恵まれた。長女は親の跡を継いで作家となった岸田衿子、次女は前述の通り、女優として活躍した岸田今日子である。さらに甥っ子に伝説の俳優・岸田森が控えている。

 若い頃から親と反発していた事もあってか、岸田國士は非常に優しいお父さんだったという。そうした岸田の一面を知れる逸話であろう。

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