名人?迷人?登張竹風太夫

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名人?迷人?登張竹風太夫

 厳格な登張竹風は、怖い先生の顔の裏では義太夫好きで暇があれば義太夫を唸る趣味を持っていた。
 ある時、昔教わっていた義太夫の師匠から久方ぶりの手紙が来て、「義太夫会を催すから来てくれ」とあった。
 健在を知った登張竹風、喜んで会場へいくと、旧師は老いながらも元気で涙の対面――までは良かったが、「今日の夜の会で一段語ってくれ」ときた。
「教職の身ゆえ勘弁してください……」と辞退しようとしたが、師匠は承諾しない。
 とうとう折れた竹風、師匠から着物道具を一式を借りて、『鳥居又助住家の段』を語りだしたら、観客の中から「竹風先生バンザイ!」という歓声が聞こえた。
 ハッと顔をあげると、昔の教え子が喜んで舞台を見ていたという。

登張竹風『浄瑠璃修行』

 登張竹風は、ドイツ文学者で、日本における、哲学者ニーチェの紹介者・翻訳家の先駆け的な人物である。

 高山樗牛のニーチェ論に同調し、次々とニーチェの翻訳や哲学を紹介。事実上の紹介者となった。

「超人」や「批判主義」などの概念は、明治の知識人を驚かせ、後年の個人主義や大正デモクラシーの一翼となったが、「超人思想」が不敬とみなされ、学校を追放されるなど、めり込むあまりに不幸もあった。

 一方、専門のドイツ語は筋金入りで、ドイツ語と英語の細かいニュアンスや演劇指導までも出来たという所から、結局職にあぶれることはなく、最後までドイツ文学者としての矜持を貫いた。

 本業では非常に厳しく、皮肉っぽい先生であったというが、そのくせどこか抜けていて、畏怖されるも嫌われない、得な性分の人物だったと伝えられる。

 上の逸話などは特にいい例だろう。ニーチェの研究者が、

 義太夫とは何とも不思議な取り合わせではないだろうか。

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