あれは三重の馬鹿

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あれは三重の馬鹿

 三重吉は23歳の時に『千鳥』を発表し、漱石の絶賛を得てから漱石門下の俊英として『山彦』『千代紙』『小鳥の巣』などの佳作を輩出、たちまち人気作家へ上り詰めた。
 しかし、30代にして突如筆を折ってしまい、以降は『赤い鳥』の主筆や評論、編集など、独自の路線を進むようになった。
 その背景には、自身の行き詰まりや子供が生まれたことによる心境の変化があったというが、弟弟子の松岡譲は最後の作品『八の馬鹿』が創作を辞める一因になったのではないか、と考えていた。
 曰く、これまでのロマンチックな作風からシリアスでリアリズムな作風への転向を計ろうと、「八の馬鹿」を発表したが、評判はよろしくなかった。
 これにはさすがの漱石も閉口をして、
「あれは八の馬鹿ではなくて、三重の馬鹿だ」
 と軽口をたたいた。一同大爆笑であったがただ一人三重吉は神妙そうな顔をしていた。
 この痛烈な批評が身に染みたのか、三重吉は小説を本格的に取り組む事はなくなってしまったという。

松岡譲『漱石の印税帖』

 鈴木三重吉の売れ方は漱石門下の中でも目覚ましいものがあったという。漱石譲りのロマン主義を受け継ぎながら、耽美で流れるような文章を得意とし、当時のインテリを熱狂させた。

 明治から大正初期にかけて売れに売れた三重吉であるが、中年に入ると途端に筆を折り、児童文学者として活動する事となった。

 その原因に関して色々と語られる所となったが、松岡譲がそう述べているのが面白く、儚い。

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