浪曲、漫才、流転の人・吉田奈良夫(二代目)

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浪曲、漫才、流転の人・吉田奈良夫(二代目)

 人 物

 吉田よしだ 奈良夫ならお
 ・本 名 小山 幸一郎
 ・生没年 1926年3月10日~1983年12月6日
 ・出身地 三重県 熊野市 有馬町

 来 歴

 吉田奈良夫(二代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。三代目吉田奈良丸門下からスタートし、若手として注目されたものの、売り出しから間もなく浪曲不況が勃発。漫才、歌謡ショーと転々し、中堅として復帰するものの、遂に売り出す事なく夭折をした。

 50代半ばの夭折こそ遂げているものの、1980年代まで健在だった事もあり、一応の資料は残っている。一番詳しいのは『上方芸能61号』(1979年5月号)掲載の「関西現代浪曲名鑑」だろうか。

本名 小山幸一郎。大正15年3月10日生れ。三重県熊野市有馬町出身。
昭和15年4月1日、三代目吉田奈良丸に入門。吉田奈良夫と名のる。
昭和16年10月、奈良市の新徳席にて初舞台。「孝子印籠の迷い」を語る。

 とある。

『浪曲事典』によると、父親の浪曲好きが動機となって、高等小学校を卒業後に浪曲師になったのだという。

 ただ一部文献では「奈良丸に入門し、奈良造。昭和25年に奈良夫と改名する」とあり、混乱もある。

 1954年の番付では、二段目前頭・13枚目。新人としてはまずまずの位置といった所か。

 1955年の番付では、なぜか吉田奈良造となっている。別人かも知れないし、その辺りの事はわからない。

 1957年2月23日、毎日放送の「浪曲研究会」に出演。「大浦兼武」を口演している。

 これから売り出そうという矢先に浪曲界は不振になりはじめ、大看板は兎も角も新人・若手は仕事にあぶれるようになった。

 さらにタイヘイトリオや暁伸・ミスハワイに代表される浪曲漫才、かしまし娘などの歌謡ショーの大流行があって、歌謡漫才に転向。

 1963年、小山一郎と改名し、中山礼子の主宰する「ロマンスレイコショー」に参加。相方兼演奏家として活躍。ギターをもって舞台に出ていた。

 漫才師として活動するほか、河内音頭の伴奏をするなど手堅く活躍していたが、タイヘイトリオやかしまし娘のような人気を得られなかった事や、浪曲への未練から1972年に復帰。

 復帰後は三代目奈良丸譲りの「義士伝」などを演じていたが、出戻り新参という事や自身の浪曲の演歌などで歌謡浪曲として演じていたという。

 先述の『上方芸能』に――

戦前に三代目奈良丸に入門しているのだから、芸歴はずいぶんと長いのだが、地味な活動に終始したのか目立つことの少ない人である。昭和38年からは、初代京山幸枝門下で幸枝嬢を名のったことのある中山礼子と、浪曲ショーを組んで、松竹や吉本の各演芸場に出ていたこともある。10年ほどいた色物の世界を抜けて、昭和47年には浪曲に復帰した。  その後も、夏場になると音頭もやっているので、現在も浪曲一本での活躍というわけにもいかないらしい。朝日座での大会にもめったに登場しないので聞く機会は少ないが、師匠ゆずりの義士伝などをテープ伴奏を入れた歌謡浪曲のスタイルで語っている。

 と芸風がつづられている。

 1976年の番付では、「前頭四枚目」。梅ノ井鶯、広沢晴海(二代目)、浪花歌笑に次いでのランクイン。ただしこの頃にはもう浪曲の人材が少なくなっており、地方で細々と活動している浪曲師を無理くり集めているような始末であった。

 1977年5月、兄弟子の吉田一若が中座で開催した「吉田一若芸能生活40周年公演」に出演。これが最初で最後の浪曲大会であったといってもいいのではないか。

 その後も巡業と河内音頭を中心に活動を続けていたほか、浪曲親友協会の評議員書記に抜擢され、就任。浪花歌笑の下に就き、歌笑の「浪曲親友協会法人化計画」の良き理解者となった。

 しかし、この評議員就任前後で体調を崩し入院。一度は小康を得たものの、すぐさま肺癌が発覚し、入院。療養生活を送っていたが、56歳の若さで亡くなった。

 『月刊浪曲』(1984年7月号)によると――

吉田奈良夫、57歳で逝く
 奈良丸門下の吉田奈良夫師が昨58年12月6日、肺ガンのため他界した。享年57、2年程前に一度入院して加療につとめ元気になって退院したが、再び発病して入院、薬効むなしく死亡した。
 親友協会内にあって浪花歌笑理事長を助け、法人化の草案などに力をそそいでいた。遺族は未亡人の小山艶子さん。

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