浪曲を彩った人々

春日井一門の始祖・春日井松之助

春日井松之助は浪花節黎明期に活躍した浪花節の芸人。デロレン祭文・浮かれ節からスタートし、独自のネタと節を練り上げ、浪花節黎明期の一枚看板となった。浪花亭駒吉と手を組んで、今日の日本浪曲協会の前身「浪花節組合」を作った功績もある。
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関西派の中堅・広沢虎遊

「関西派の中堅・広沢虎遊 - 浪曲を彩った人々」広沢虎遊は明治から昭和初期にかけて活躍した浪曲師。二代目広沢虎吉の弟子で、関西派の若手・中堅として華々しい人気を博した。戦後浪曲師・歌手として活躍した村田英雄の実父・広沢仙遊(舟遊)の師匠としても知られる。
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東西名古屋の一枚看板・大和家錦

大和家錦は浪花節黎明期から大正にかけて活躍した浪曲師。名古屋を中心に売り出し、東西で目覚ましい活躍を続けた。『太閤記』『義士伝』といった武家物を得意とし、不思議なユーモアと達者な語り口を売りにしたという。
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二代目円車になった三河家小円車

「二代目円車になった三河家小円車 - 浪曲を彩った人々」二代目三河家円車は明治末~昭和にかけて活躍した浪曲師。ドンドン節で一世を風靡した初代円車に入門し、「小円車」を襲名。二代目円車候補として頭角を示し、二代目円車を襲名したが夭折してしまったという。
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大成直前の夭折・宮川右近

宮川右近は戦前戦後活躍した浪曲師。宮川左近の偽物のような名前であるが、れっきとした人気者でラジオやレコードで吹込むだけの実績があった。宮川派の新鋭として売り出そうとした矢先、病に倒れ、40になったばかりで亡くなってしまったという。
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雲右衛門との確執・三河家梅車(初代)

三河家梅車は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浮かれ節から万歳・盆踊り・説教・祭文などのいい所を取った明るい節廻しと話術でメキメキと頭角を現し、「三河家一門」を創設し、中京の大看板として君臨したが、最晩年は胸を病み、さらに雲右衛門との確執で不遇のまま死んでいった。
浪曲ブラブラ

ミハルと読んでほしかった森三陽

森三陽は戦前戦後活躍した浪曲師。九州の浪曲師として出発し、関東へ移って看板を上げ、戦後は関西で活躍した――という芸歴の長い人物であった。当人は「森三陽」を「ミハル」と読ませたかったそうだが、いつの間にか「サンヨウ」が定着し、それが通り名になってしまったという。
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女流浪曲界の元老・吉田奈良女

「女流浪曲界の元老・吉田奈良女 - 浪曲を彩った人々」吉田奈良女は浪花節黎明期に活躍した女流浪曲師。ほぼ独学で一家をなし、吉川亭小福、吉川花子などと並んで、女流浪花節の黎明期の第一人者として華々しい活躍を遂げた。
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関東節の古顔・浪花亭奴(三代目)

「関東節の古顔・浪花亭奴(三代目) - 浪曲を彩った人々」浪花亭奴(三代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。関東節の古顔的な存在で、粋で哀愁のある関東節を武器に侠客物、お家騒動物と幅広く読みこなし、長い間堅実な人気を築いた。
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皮肉な達人・京山福圓

京山福圓は明治~昭和にかけて関西一円で活躍した浪曲師。京山福丸の門下生で、梅中軒鶯童にして「達人」と呼ばれるほどの芸達者であったという。梅中軒鶯童に『吉原百人斬り』をつけたのはこの人だという。