馬場孤蝶はおしゃべり魔?

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馬場孤蝶はおしゃべり魔?

 樋口一葉の親友で、慶応大学教授であった、馬場孤蝶は若い頃から活気盛んな性格であったそうで、その印象は一癖もある作家たちを感心させるほどであった。 
 兄が自由民権運動家の馬場辰猪とだけあってか、演説がうまく、立て板に水の如き弁説も有していた――が、話し始めると止まらないめちゃくちゃなおしゃべりでもあった。
 
その癖は随筆や小説でも同じで、とにかく文章が長くなる。書き出すと自分の論を吐ききるまで切り上げられない性格であった。
 
ある時、『文學界』に、原稿を送ったのは良かった――が、たかだか四十頁あるかどうかの冊子に送ってきた原稿を換算すると十数枚にも膨れ上がる。
 
一人でこんなに書いてもらっちゃ困ると異例の返送騒ぎが起こったというのだからおかしい。 

 そんなおしゃべり屋の孤蝶についた渾名が「権十郎」。その心は、明治の歌舞伎俳優で徹底的な議論好き、おしゃべり好きと知られた「市川権十郎」に見立てられたわけ。

平田禿木『文學界前後』

 馬場孤蝶は、明治から戦前を代表する文学者であった。

 中年以降は慶応大学付きの英文学教授として知られていたが、若い頃は文学革新や文学論をぶっ放し、奔走する文学青年であったわけ。

 その人柄は、樋口一葉にして「悲憤慷慨の士なりとか、嬉しき人なり」と言わしめ、星野天知も「意気颯爽、革新を叫ぶ」と記しているように、愛される性分の持ち主であった。

 心の内では作家たちを品定めしていた樋口一葉から信頼され、またその樋口一葉を買っていた皮肉屋の斎藤緑雨からも信頼された。

 樋口一葉の風貌や性格をよく記憶し、一葉亡き後に様々な思い出を書き綴り、顕彰に努めた。今日の樋口一葉像の多くは馬場孤蝶の記憶や証言から出ているものが多かったりする。

 また、斎緑雨からは一葉の遺稿や日記を頼まれ、遺言と最後の願いを聞き届けた。「斎藤緑雨本日死亡」の訃報記事に加筆を加え、新聞社に投稿したのも、孤蝶である。

 文学創世記と明治文壇の節目やターニングポイントを経験した一人といえよう。

 そんな孤蝶の若き日の面影を知る一篇である。

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