「息子」ならぬ「親爺」をやりたい三津五郎(都新聞芸能逸話集)

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「息子」ならぬ「親爺」をやりたい三津五郎

しうか、段四郎などの息子連で故小山内氏の「息子」を新歌舞伎座に出すと聞いて三津五郎ハテ近々に幸四郎さん宗十郎さんあたりを誘つて、新作の「親爺」ツて芝居でもやらうかしら

1934年3月1日号

 1930年代、御曹司といわれていた坂東蓑助(三津五郎養子)、市川高麗蔵(幸四郎の長男)、坂東志うか(守田勘彌養子)、中村もしほ(吉右衛門弟)、市川段四郎(猿之助の長男)といった面々が新しい歌舞伎と改革に目覚め、青年歌舞伎というものを結成した。

 後年、この一座は東宝の専属となり、松竹の松次郎・竹次郎兄弟を激怒させた。特に蓑助へのバッシングはすさまじく、蓑助が戦後関西歌舞伎で活動する事となったのは、松竹への離反が尾を引いた形である。

 この頃はまだ松竹の下で勉強会程度だった事もあって、関係者からも相応に評価されていた。

『息子』は、劇作家の小山内薫が友人の六代目尾上菊五郎に提供した作品である。ハロルド・チャピンの『父を捜すオーガスタス』の翻案であったが、菊五郎の写実的な演技と、老爺で付き合った尾上松助の枯淡の演技、捕り手を勤めた守田勘彌の補佐もあって、高い評価を受けた。

 場末の火の番小屋で細々と暮らす老爺の下に、生き別れた息子・金次郎がやってくる。暗がりの中、二人はそれとなく身の上話をするが、金次郎はお尋ね者ゆえ、大っぴらな事が出来ない。老爺の話を聞いている内に、それが父親である事を悟る。しかし、犯罪者ゆえに身元を打ち明けられない金次郎は捕縛に来た役人をよけながら「ちゃん(父親のこと)」と呟いて、どこかに消えていく――というもの。

 この時は、簑助が火の番老爺、しうかが息子金次郎、段四郎が捕史が勤め、評判上々であった。

 そんな噂を聞いた三津五郎が、当時すでに還暦近くなっていた幸四郎と宗十郎を集めて『親爺』という作品をやりたい、とはうまい洒落である。

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