内田魯庵と嵯峨の屋おむろの頑固くらべ

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内田魯庵と嵯峨の屋おむろの頑固くらべ

 嵯峨の屋おむろと内田魯庵は古くからの友人で、おむろが文壇を去った後も魯庵は何かと気にかけていたそうで、おむろも古本屋経営のため、ちょくちょく魯庵の家を訪れては本を仕入れる生活を送っていたという。
 そんな魯庵の元に、編集者の岡茂雄が訪ねてきた。岡茂雄はおむろの教え子で(陸軍士官学校に語学を教わっている)、面識がある事を知った魯庵は、

「今度、改造社から『現代日本文学全集』という円本(一円で全集を売るという大正時代に大流行した企画)に、私と二葉亭四迷を組みあわせて、本を出したいと願ってきたんだが、私は断った。そのかわりに、矢崎(おむろの本名)を入れてやろうと思うんだが、あなたから話してはくれないか」

 と、斡旋を頼んだ。魯庵の親切に感動した岡は二つ返事で承諾。
 次の日、おむろの経営する本屋を訪ねた。普通の作家なら全集に出る事は名誉――岡は朗報として、これをおむろに伝えると、おむろは途端に嫌な顔をして、

「内田というやつは下らん事を言うやつだ。私はそんな事をしてもらいたくはありません。私は天子様(天皇)から老後を養っていくようにとありがたいお金(恩給)を頂戴しているのに、そんな事をしたら罰が当たります。君、内田によく言っておいてください。迷惑だ、と。」

 岡茂雄が驚いたのは言うまでもない。その旨を魯庵に伝えると、魯庵は呆れかえって、
「困った奴だ、頑固が治らん」
 と呟いた。そのくせ、魯庵もまた改造社の申し出に対して、「いくら自分の作品がまずいからとて、バナナのたたき売りみたいな事はされたくない」と平然と断ってしまった。
 どちらが全集に出るかどうか、出版間際まで延々と意地比べを続け、最終的には、魯庵の説得でおむろが折れた形になったというが――とんだ意地比べである。 

岡茂雄『本屋風情』

 内田魯庵は、斎藤緑雨亡き後、文壇の狷介屋・皮肉屋として謳われたが、岡茂雄によると、嵯峨の屋おむろはその上を行く狷介だったという。

 これを岡は「狷介で通っている魯庵翁の、またその上を行く人があろうとは。しかしなんともいえぬ楽しい気分になった。」と評している。

 もっとも、おむろは、日本でも最初の「流行と衰退を一度に味わった一発屋的な作家」という見方も出来なくはない。

 明治20年代にあれだけ人気を博しながら、間もなくその人気も落ち、明治43年に作品を出さなくなるまで、産めぬ苦しみ、人気が低迷する苦しみを大いに味わった人である。

 やっと得た安住の地を、再び安直なジャーナリズムに荒らされたくない――という感情が、狷介を招いたのではないだろうか。

 因みに、おむろは、1923年に学校を退職し、恩給を貰える立場になっている。

 退職後、おむろ当人は「老人」と自嘲しまくったそうだが、この人、内田魯庵の死を見届けるどころか、太平洋戦争終結まで見届けて、85歳まで生きるのだから皮肉といえば皮肉である。

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