将棋にこり過ぎて捕まりかけた斎藤緑雨

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将棋にこり過ぎて捕まりかけた斎藤緑雨

 ある日、幸田露伴の家に森田思軒と斎藤緑雨がやってきて、将棋を打ち始めた。三者三様の将棋であるが、娯楽のない時分のこと、ヘボも上手も忘れてパチリパチリと何局も打つ。
 夜が更けて時計の鐘に気づいた時には夜中の三時。三人は夜更けをさとって、一旦解散をする事になった。
 露伴の家の近くに住む森田思軒はまだよいものの、緑雨は上野の山を抜けて帰らねばならない。
 夜中、着流しでダラダラ歩いていると突如後ろから警官に呼び止められた。驚いて飛び上がると警官に勾引されかけた。話を聞くと「こんな時間にふらつくのは曲者に違いない」と咎める姿勢。
 さすがの緑雨も目を白黒させ、なんとか弁解をして解放された。

 当時を知る露伴はこれを回顧して、

「夢中になるから折々滑稽談ができるのです」。

『読売新聞』(1900年5月20日号)

 明治から敗戦まで80年をかけぬけた文豪・幸田露伴、翻訳家・ジャーナリストとして多くの小説や評論を発表して青少年や文学者に影響を与えた森田思軒、そして明治文学最大のトリックスター、斎藤緑雨。

 三人は意外に仲が良く、しょっちゅう会ってはバカ話や遊び事に興じていたという。

 ここで面白いのが、露伴は谷中、思軒は根岸と近くに住んでいたのに対し、緑雨だけは「本所」と少し遠い所に住んでいた。

 上の逸話で、緑雨だけが警察に拘引されかける目に合うのは、緑雨が本所に住んでいた事に他ならない。

 谷中を出て、上野、稲荷町、田原町、浅草――さらに橋を渡って、やっと本所、というのだから緑雨は中々の健脚だったわけ。

 緑雨は結核、思軒はチフスで20世紀を観ぬうちに死んだのに対し、露伴だけは20世紀はおろか、戦争の終焉まで見届ける事になった。この場合、露伴は本当に幸せだったのか、否や。

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