皮肉屋緑雨と社会主義者秋水の不思議な関係

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皮肉屋緑雨と社会主義者秋水の不思議な関係

 毒舌と皮肉の批評で文壇の関係者から疎まれた緑雨であったが、実際の性格は至って内向的で子供っぽく、そして情に厚かった。
 幸徳秋水と亀戸天神にお参りした際、池に鯉が群れているのを見かけた二人。緑雨は売店でお麩をしこたま買っては、惜しげもなく池の中に投げ入れた。
お麩につられて大きな鯉が顔を出すと手を叩いて喜んだ。幸徳秋水が呆れたのは言うまでもない。

 緑雨と幸徳秋水と仲が良く、一家ぐるみで付き合いがあった。万朝報時代からの同僚でそこから友情を築いたのだという。
 晩年思想運動に没頭して孤立しがちであった秋水を最期まで気づかったのが緑雨であり、秋水も何かと理由や仕事を持って来ては緑雨を支援していた。
 党派性を超えた友とはこういう事を言うのであろう。
 思想運動や官憲の尾行などで、
何かと家を空けていた幸徳秋水は、年老いた母親をいつも一人にしていた。
 自分の立場上、どうにもならないことを任じていた秋水であったが、その老母の話し相手や身近な世話をしていたのは誰でもない緑雨であったことを後年知った。
 幸徳秋水の妻だった師岡千代子は「色々な人が訪ねてきたが」「親身になって、田舎出の年老いた母を相手に世間話してくれたのは緑雨氏だけだった」と、その恩を記している。

師岡千代子『幸徳秋水の思い出』

 この世の中にはどうしてこの二人が……というような交友関係が実際ある。故に交友とは面白いものである。

 明治文学の中でも特に異色の交友といえるのが、文壇の皮肉屋で辛辣な批評や警句で知られた斎藤緑雨、社会主義や非戦論を論じて大逆事件で殺された幸徳秋水の2人であろう。

 江戸文学や古典の世界にのめり込む緑雨と、社会運動に没頭する秋水――と接点はまるでなさそうであるが、「万朝報」という新聞がそれを結びつけた。

 後年、二人は「万朝報」を飛び出して、それぞれ病死・刑死と悲惨な運命を辿るのだが、それでも二人の友情が変わる事はなかった。

 緑雨は、秋水の論じる社会主義にはそこまで共感を得ず、思想運動に没頭する事はなかったようであるが、しかし一定の理解はあったそうである。もっとも貧乏で病気がち故に、思想運動をしたくてもできないという一面もあったのだが―― 

 一方、秋水は緑雨の文才を高く買い、その境遇を憐れんで、非戦論を打ち立てた自社新聞『平民新聞』に「もゝはがき」という随筆欄を設けてやった。苦しい発行状況の中で、原稿料を分けてやり、時には小遣いや祝儀を握らせるほど、緑雨の晩年を助けてあげた。

 曲がりなりにも遺言を残して、畳の上で死ねたのは秋水のお陰であろう。

 秋水は緑雨の境遇を慮ると同時、緑雨が「樋口一葉を救ってあげられなかった後悔」「それを半分見殺しにした文壇や小説界へのいらだち」を見出していた――という説もあるが、いかがだろうか。

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