三代目左團次候補の浅利慶太(都新聞芸能逸話集)

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三代目左團次候補の浅利慶太

左團次に後継者が出来たーーといふと話は喧しいが、実は浅利鶴雄君の児で四つの慶太君といふのが左團次夫妻にすつかりなついて、自分の家に帰らうとせず、坊やは浅利慶太だネ、といふと、イヤ高橋慶太だヨ、と左團次の本姓を冠せていふ程で、この頃は楽屋に入浸り、これで妻君が黒衣を着せると、ボクは豆高島だイ、と反るに左團次目を細くして、ウンさうだとも/\

1936年2月15日号

 二代目市川左團次は名優と謳われながらも、後継者に苦しんだ一人であった。

 友人の七代目澤村宗十郎の三男を養子にして「市川莚升」の名を与え、後継者と見込んだが、この子はあまりにもマイペースで、左團次と性格が違い過ぎたためにあえなく御破談。

 その後も、後継者を探したが思うようにいかなかった。

 そんな左團次が晩年溺愛したのが、妻・登美の甥にあたる浅利鶴雄の息子(左團次から見れば大甥)、浅利慶太であった。

 ご存じの通り、劇団四季の創設者で演劇界の親玉的存在であった浅利慶太その人である。

 浅利慶太の素質がいい事を見抜いた左團次夫妻は彼を溺愛し、息子同然に家に住まわせた。「もう少し大きくなったら初舞台を踏ませてやろう」とも思ったらしいが、左團次は1940年に倒れ、そのまま亡くなってしまった。

 浅利慶太が6歳の事である。左團次は死を目前にして、妻の登美や関係者に「慶太だけは絶対に役者にさせるな」と遺言をして死んだ。登美は、慶太を役者にする気だったというが、夫の遺言にしたがって慶太に学問にはげむよう進ませた――と慶太は『時の光の中で』の中で記している。

 23歳で父の初代左團次を失った二代目左團次からしてみれば、親も後ろ盾もない俳優がどれだけ惨めで悲惨なことになるか、という自分の惨めな過去がよぎったのかもしれない。

 結果として左團次家は、二代で断絶し、浅利慶太は歌舞伎ではなくビジネスへと進んだ。左團次の名跡は六代目尾上菊五郎を通して、市川男女蔵に譲られ、三代目左團次。三代目の養子が四代目を受け継いで、今に至る。

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