一人娘の扁桃腺もカワイイ中村芝鶴(都新聞芸能逸話集)

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一人娘の扁桃腺もカワイイ中村芝鶴

芝鶴の女の子が、手術をして扁桃腺を取つちまう、一人ツ子の体についてゐたものを、ムザ/\病院へ置いて来るのは如何にも惜いとあつて貰つて帰り、小さな壜にアルコール漬にして、楽屋の鏡台脇にのせ、これを眺めながら嬢やと二人でゐる気持で顔のこしらへなどしてゐるが、今度の旅にまで、これを持参すべきか否かで、ハタと困りぬいてゐるといふ話

1936年6月30日号

 中村芝鶴はインテリと美貌の歌舞伎俳優として知られた名脇役であった。

 父は中村伝九郎という小芝居の人気者であったが、父の斡旋で名優・五代目歌右衛門に入門。五代目の寵愛を受けて、一時期は歌右衛門の息子・慶ちゃんの中村福助と並んで若女形に抜擢されるほどの人気があった。

 しかし、当人は歌右衛門よりも尾上梅幸に憧れていた事から無断で帝劇に移籍。これが松竹幹部の怒りを買って、遂に出世街道からドロップアウトしてしまった。

 そのくせ、処世術は確かであの手この手で修羅場を乗り越えた。芯のある女方の芸と良識を持ち味に多くの俳優から慕われた。

 松竹→帝劇→松竹→東宝→松竹と、松竹に二回も歯向かっているが、最晩年まで、大幹部の格を保ちながら天寿を全うしたのは、何かと躓きたがる俳優にしては珍しい事であった。

 松竹が弾圧をかけようとしても他の俳優が引き立てるので結局有耶無耶になったようである。そうした人望や「誰にも負けない芸」を以てキチンとアピールできた所に芝鶴のしたたかさがあったわけである。

 母が大文字楼という吉原のお茶屋の娘だった関係から廓の構造や生活に詳しく、これをテーマにした随筆をたくさん残した。

 一連の作品は作家や関係者からも高く評価され、晩年は随筆家としても活躍していた。そうした強味が、芝鶴の生涯を見事に彩ったと思うと、「ペンは剣よりも強し」とでもいうべきなのだろうか。

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