市川染五郎の高い鼻とシラノ (都新聞芸能逸話集)

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市川染五郎の高い鼻とシラノ

明治座の染五郎襲名の口上で吉右衛門、鼻の高いのは高麗家と昔から言ひますが、もひ染五郎が鼻を高くするやうなことがあつたら、早速曲げて御覧に入れますと言ふ、染五郎にもし曲げられたらどうすると聞けば、「シラノをやります」

1931年4月11日号

 ここでいう染五郎は八代目松本幸四郎の事。男っぷりのいい芸で一世を風靡し、戦後歌舞伎の大立者として君臨した。今の白鸚、幸四郎、染五郎三代の始祖であり、先年物故した吉右衛門の実父でもある。

 七代目幸四郎の次男として生まれたが、初舞台は意外に遅かった。当初は高校、大学まで出て立派な学者か何かになる事も望まれたらしく、当人も「画家になりたい」と願うほどであった。

 それが諸般の事情で初代中村吉右衛門に預けられ、厳しい薫陶を受けた。吉右衛門の娘・正子をもらい、一時は「中村勘三郎」を継ぐ話も出ていた(幸四郎が勘三郎遺族の中村明石の生活を援助し、明石はその見返りに『勘三郎の名跡を幸四郎に譲渡する』と約束をしていた)。

 しかし、兄の高麗蔵が市川宗家に養子入りし、「市川海老蔵」になってしまった関係から(後に團十郎を継ぐ関係から)、「松本幸四郎」のお鉢が回ってきた。父の死後、この名跡を継いだ。

 吉右衛門は男の子に恵まれなかっただけあってか、この恰幅のいい染五郎を強く見込み、早くから後継者と目論んでいた。染五郎もその意をくみ取り、吉右衛門の十八番を見事に受け継いだ。

 なお、この口上は吉右衛門が尊敬していた九代目團十郎の逸話を倣ったものであろう。九代目は愛弟子の市川新蔵の口上で「新蔵は最近高慢という話がありますが、もし天狗になったらその鼻をおります」と言い放ち、観客を勘当させた。

 この逸話を倣ったのであろうが、「鼻が折れたらシラノをやる」(シラノは鼻の折れた男の話)とはおかしい。

 余談も余談であるが、幸四郎はシラノを演じる事はなく、代わりに弟の松緑がシラノを当たり役にしている。皮肉である。

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