坪内逍遥の『嫁入りのための五箇条』

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坪内逍遥の『嫁入りのための五箇条』

坪内逍遥は、娘のくにに以下の五箇条を『嫁入りのための五箇条』として教えこんでいたという。

その一、文学者のもとには嫁にやらない。なぜなら、貧乏することは目に見えていて、そんな苦労はさせたくないから。
その二、軍人のもとには嫁にやらない。なぜなら、未亡人になってしまってはかわいそうだから。
その三、医者のもとには嫁にやらない。なぜなら、病人の世話になっておきながら、なんだか態度が好かないから。
その四、僧侶のもとへは嫁にやらない。なぜなら、死人ばかり扱う仕事は好ましくないから。
その五、大川(隅田川)の向こうへは嫁にやらない。なぜなら、洪水の苦労はさせたくないから。

娘のくには、四つ目まですんなりと理解したが、最後だけがよくわからない。 「どういうわけです?」 とその謎を聞くと逍遥は、
「大川の向こう側には饗庭篁村さんの家がある。大雨のたびに彼の家は洪水に巻き込まれて、泥の始末や後片付けに追われていた。なんども見舞いもするようになっては困る。洪水の苦労を味わせたくない」
 と、かつての体験からその条件を練り込んだのだという。

飯塚くに『父逍遥の背中』

 坪内逍遥は我が国最初の人気小説と言っても過言ではない存在である。今日も続く「小説」の概念を生み、育て、それで金を取った――という点では、先駆者と言っていいだろう。

帝国大学という超エリートの出ながら、文芸界に飛び込み、これまでの戯作や文芸の限界を看破。

 一流の語学や知識を生かし、「文学」「小説」の発展を提案。その体系は『小説神髄』などに書きまとめられ、二葉亭四迷や幸田露伴、さらには後進の世代に大きな影響を与えた。

 途中で、小説の筆を折ってしまったが、創作活動や文学活動は続け、多くの弟子や関係者を育て上げたのは言わずもがなであろう。

 そんな人気作家、坪内逍遥であったが、昔から作家の多くが悲惨な死を遂げてしまう事を知っており、身の回りでもそれを強く体感をした。

 そのためか、小説や創作の仕事をしながらも小説家や作家の生活面をひどく嫌うという相反を長く持っていたという。

 また、自分の嫡男で文学関係の仕事をしていた坪内士行が放蕩と女遊びにハマって身持ちを持ち崩しかけた事も、ますますその疑念やいら立ちを強めていく事になる。

 最後に残った養女の坪内くに(明治の奇人、鹿島清兵衛の娘をもらった)には、変な結婚や家庭を築いてほしくない、とくにが成長し始めてから上のような訓示を与えるようになったのだという。

 古臭いといえば古臭いかもしれなぃが、当時見合いや親が勧める結婚が主流の中で、これだけの処世訓を持って結婚と向き合った親もそうはおるまい。

 そんな坪内逍遥の親心のこもった結婚訓と思えばまた愉快である。

 そのくせ、医者に対して辛辣なところなど、病弱で医者通いの多かった坪内逍遥の私憤や私怨が感じられるようであって、また面白い。

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