最初で最後の選挙投票を行った夏目漱石

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最初で最後の選挙投票を行った夏目漱石

 夏目漱石は投票嫌いで有名で選挙権を有しながら長らく棄権を続けてきた。
 1915年に友人の馬場孤蝶が衆議院選挙に出馬したため、遂に投票所へ赴いて、馬場孤蝶に投票。さらに馬場孤蝶を応援する文章を書くなど、選挙運動に関与した。

 しかし、せっかくの応援も虚しく馬場孤蝶は落選。

 漱石もまた次の選挙をろくろく見る前にぽっくり死んでしまった。これが最初で最後の選挙投票だったというのが皮肉である。

『読売新聞』(1915年2月17日号)

 馬場孤蝶は明治から戦前を代表する文学者であり、文章家である。クセモノぞろいの明治文学の文学者の中で、これほどうまく立ち回った人もいない。

 見た目とは裏腹に中々豪胆な所のある樋口一葉にして、「うれしい人」と評されて親友となり、皮肉屋の斎藤緑雨に信頼されて樋口一葉の遺稿と原稿を頼まれる、自然主義界隈ともロマン主義界隈とも誰とでも親しいという稀代の人徳者であった。

 そんな孤蝶であるが、兄が自由民権運動の旗手・馬場辰猪――板垣退助らとともに、自由民権運動を推挙しまくった運動家の弟だけあってか、気骨もあり、ノンポリのようにみえて、深い情熱を持つ人物であったという。

 1915年1月、友人で評論家の安成貞雄、和気律次郎の両人に「今度ある衆院選に出てくれないか」と立候補を勧められた。

 当初は困惑した孤蝶であったが、仲間たちの説得を受けて立候補を表明する。そのついでに、同じく政界への志のあった与謝野鉄幹も誘って、これも選挙戦に立つ事となった。

 孤蝶は東京、与謝野鉄幹は京都から出馬を表明した。この時には福沢諭吉の婿養子、福沢桃介や「二六新報」社長の秋山定輔も出馬、さながら文化人の顔見世のような選挙であったという。

 孤蝶も鉄幹も出馬した背景には、選挙の4年前、1911年の1月、優れた文人であり、社会運動家であった幸徳秋水が「大逆事件」で殺された一件があったという。

 孤蝶は緑雨を通して幸徳秋水を知っており、鉄幹は『明星』等を通して幸徳秋水一味の存在をよく知っていた。

 二人はそんな幸徳秋水の無念と共に、「権力を行使して事実上の黙殺や冤罪を計っていいのか」という「表現の自由」を社会や政府に訴えかけたのであった。

 そんな二人の抵抗を応援するかの如く、夏目漱石や北原白秋は孤蝶たちに激励文や推薦文を贈った。漱石は孤蝶の抱く「大逆事件や弾圧への抵抗」を信頼していたという。

 結果として馬場孤蝶は23票、与謝野鉄幹は99票と惨敗を喫する事となったが、彼らの訴えた自由と大逆事件への反発は、特に文学界や論壇界へ大きな影響を与える事となった。

 後世の評価では「この二人の出馬を機に文学でも大正デモクラシーの機運が高まった」とあるくらいだが、はてさて。

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