江見水蔭と蟹の話

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江見水蔭と蟹の話

 江見水蔭は喧嘩っ早く、皮肉屋の斎藤緑雨に避けられるほどの快男児であったが、尾崎紅葉と伊坂梅雪だけには弱かった。
 品川に住んでいた江見水蔭、当時品川で取れたばかりの蟹を買ってきては好んで食べたが、皆家人にむしらせるために、食べるのはすこぶる下手であった。
 ある時、座敷で蟹が出たがあまりにも食べるのが下手なために、伊坂梅雪が「江見は品川にいながら、蟹の食い方も知らねえ」と冷やかしてきた。
 腹を立てて悔しがったが事実なので仕方ない。
 それから月日が流れたある時、知人から
「團十郎と福地桜痴が蟹を食べに行った。團十郎は蟹を自分の手で割ってキレイに食べたが、福地桜痴は女中にむしらせた」
 という逸話を聞いた。
 これを知った江見水蔭、かつての意趣返しとばかりに伊坂梅雪の家を訪ねて、この一部始終を講釈し、
「芸人と作者ではそれだけ違うんだ。僕はこれでも作者なんだからね」
 と自慢してみせたが、伊坂梅雪は平然と、
「それ見ろ。團十郎は江戸っ子だ。福地桜痴は長崎生まれだろう。江戸っ子だから蟹の食い方を知ってるのだ」
 と言われて、再び逆ネジを食らわされてしまった。

江見水蔭『蟹を食べた話』(『食道楽』一九二九年一月号)

 江見水蔭は、硯友社系の作家で、戯作系の作品からスタートして、社会的な小説に翻案小説、晩年は大衆小説や考古学、探検記などに移行した、明治期の作家の中でも流転の激しい人であった。

 言い方を悪くすれば器用貧乏、よく言えば才人で、当時としては多筆の人であったといえよう。そのせいか、読もうと思えばいくらでも読むことができるが、特出した傑作を「これ!」と選びづらい、難しい人である。

 今日では、シェイクスピアの「オセロー」を翻案した人、「相撲は日本の国技」という定義を第一に発して「国技館」由来となったという方が知られているようである。

 そんな江見水蔭は、岡山の出身であったが、不思議と江戸っ子気質を任じており、喧嘩っ早く啖呵を切る所なんぞは、下手な江戸っ子より江戸っ子らしかったと言うのだからおかしい。

 しかし、そうしたプライドや態度が時として裏目に出る事があった。そんな江見水蔭のお茶目な失敗談。

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