行方不明の友人の連絡先をよく似た名前の他人から聞いた野口雨情

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行方不明の友人の連絡先をよく似た名前の他人から聞いた野口雨情

 北海道へ行って3年も東京とご無沙汰となっていた野口雨情。
 帰ってきて挨拶状を出したが友人は皆転居していて手紙は届かない、家はわからない。
 困っている時にこそ知恵が出るのか、ふと思い出したのが、昔、友人の水野葉舟から聞いた馬鹿話。
「僕は水野盈太郎と言うのが本名なんだが、時折、帝大の外国語教授やってる水野繁太郎の手紙が来る。先方も僕の手紙がよく来るそうだ。困った話だ」
 水野繁太郎の住所は電話帳などに載っている。さっそく、水野繁太郎の家を訪ねる事にした。

 水野繁太郎の方も、新進気鋭の詩人が来たと知って家に上げたものの、何しに来たのか全く見当がつかなかった。
「何しにおいでで?」
 と、用件を尋ねられるなり、
「申し訳ないがおたくによく間違って来るという水野盈太郎の住所を教えてくれ」
 繁太郎は驚き呆れたが、快く住所を教え、雨情はやっと葉舟と巡り会えた。

『読売新聞』(1909年11月7日号)

 野口雨情は戦前を代表する詩人のひとりで、「シャボン玉とんだ」や「カラスなぜなくの」など、今も歌われる童謡の作詞者ともして知られる。

 大正以降は好々爺として、多くの童謡にまつわる本や詩集を発表し、「お歌のおじさん」などと呼ばれた雨情であったが、若い頃はなかなか過激で、情熱家であった。

 上にもある「北海道行」も仕事や出張ではなく、妻や家庭を捨てての逃避行だったというのだからすごい。名目上は「事業の旗揚げ」であったが、実際の所は芸者との駆け落ちに近かった。

 一応事業もしていたようであるが、どれもこれも失敗し、極北の地で寒さと虚しさに震えるばかりであったという。

 家族や周りのとりなしで帰ってきた直後の雨情の虚しさがひしひしと伝わってくるようである。

 雨情が捜し歩いた水野葉舟は、与謝野鉄幹門下の歌人・詩人で、雨情の他に高村幸太郎とも親しく、やはり戦前の詩壇における大御所であった。

 余談であるが彼の息子が、中曽根内閣や宇野内閣で大臣を務めた水野清である。

 そして、そんな葉舟としょっちゅう間違えられた「水野繁太郎」はドイツ語学者である。明治から大正にかけて「ドイツ語文法」「ドイツ語入門」などを記し、内外で人気のあった教授であった。

 零落した雨情が、当時大先生としてうたわれる水野繁太郎の家に行き、そこで親友の住所をたずねるなど、滑稽で、どこか物悲しくて、ちょっとした一幕になる逸話である。

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