親友でも容赦はしない宇野浩二

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親友でも容赦はしない宇野浩二

 戦前戦後、第一線で活躍した宇野浩二は、精神的な問題やそのシニカルで誰彼にも批判を辞さない性格からか、交友関係が少し特殊であった。
 永井荷風のように人間嫌いを装って、邪険にするわけではないので、一応人が来るものの、厳しい態度や批判に耐えきれずに交友を断たれてしまう例も多々あった。
 多くの友人や知人が先立つ中、広津和郎だけは、宇野が死ぬまでの50年余り、親友であり続けた。
 しかし、宇野の批判精神は平然と親友にも向けられた。
 戦後しばらく経って、広津は宇野と一緒に歌舞伎を見に行った。座頭は初代中村吉右衛門。かつて尾上菊五郎と共に一世を風靡し、名優の名をほしいままにした優も、晩年は病や老いに悩まされ、演技や美声がおぼつかなくなってきた。
 若い頃を知っている広津は、よぼよぼになった吉右衛門の姿を見て、「さすがの名優も老いた」と、感じてしまった。
 帰り道、宇野に向かって、「あの吉右衛門も随分老いて、芸も危なくなったね」というと、宇野はムッとなに反論することなく、スタスタと行ってしまった。
 数日後、新聞の記事に宇野の作品が出ていたが、「最近、吉右衛門を見て老いたなどと批判する人がいるが、そんな人は吉右衛門の芸を知らないのである」と、恰も自分をあてつけるような論説が展開されていた。
 これにはさすがの広津も驚いて、「うかつなことを言えまい」とあきれた。
 後日、広津はまた宇野を誘って、今度は文楽を観に出掛けた。
 目玉は義太夫節の名人で、人間国宝にもなった豊竹山城少掾。武智鉄二や関係者は「これこそが義太夫」と褒めちぎり、戦後は神様のように歌われたが、若い頃から彼の芸を見ている広津は、「小音という弱点を理知的な理論に語る事によって引き込まれた芸を持っていた彼」も「今では偽りに理詰めな感じで、昔のようにひきこまれない」と素直に感じた。
 また、胸に一物の不満を抱いて、外に出た二人、広津は宇野に向かって、
「山城少掾も老いたね」
 というと、今度は宇野も静かにうなずいて、
「その通りだな」
 と答えた。当然、新聞に批判記事も出ること
なかった。

広津和郎『宇野の憤慨』 (別册文藝春秋62号)

 広津柳浪という文豪の倅に生れながらも、親父のスランプで苦しい青春を過ごした広津和郎と、早くに父を失い、障害を持つ兄を抱えながら、幼い家長として苦労をした宇野浩二は、境遇や思想が似ていた事もあってか、良き友人関係を築いた。

 特に広津の献身さは有名で、精神的な不調や性格からすぐに感情が切り替わる宇野をいなしつつ、精神が粗ぶった際には病院へ連れて行き、仕事がない時は、原稿の斡旋をしたり、と世話を焼き続けた。

 宇野が狂人にならなかったのは、広津和郎の広い懐と優しさ故、ではなかろうか。

 そんな宇野も、広津を懇意にし、彼が世間の批判や白眼視を受けながらも「松川事件」に立ち向かった際、激励の言葉や賛同の意を寄せ、時には講演や執筆にも携わるなど、良き友情を築き上げた。

 文学者の中でも最も清らかで美しい友情の一つだと思う。

 友情も天井まで行ってしまうと、どれだけ喧嘩しようが、嫌味を言われようが、「昔からああだから仕方ない」と受け流すようになってしまうのだろうか。それもまた友情である。

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