「贈呈 戸板康三様」と書いた小宮豊隆

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

「贈呈 戸板康三様」と書いた小宮豊隆

 歌舞伎評論家で推理作家として有名な戸板康二。
 ある時、大先輩で歌舞伎通の小宮豊隆の家を訪ねる事となった。
 あれこれ雑談の後に、小宮からその時出たばかりの労作『夏目漱石』の改訂版の本を貰うことになった。
 小宮は「署名してやろう」と万年筆を取り出して、スラスラと書き始めたが、よく見ると
「戸板康三」
となっている。
「先生、僕は康二です。康三じゃありません」
 と戸板が反応すると、小宮は一瞬嫌な顔をしたが、すぐさま「三」の上にタスキをかけて、「これでいいだろう」
 渡された本を見ると、
「戸板康弐様」
 とあった。

戸板康二『あの人この人』

 小宮豊隆は夏目漱石門下の俊英で、評論家、大学校長、芸術院の委員など文学・学術界の権威として謳われる人物であった。

 よくも悪くも真面目で一本鎗、やり遂げる強さを持っている反面、時としてその直言や一本鎗が大きなトラブルをもたらす事があった。

 東京音楽大学学長時代に「邦楽は学問ではない、邦楽科を廃止する」と放言して研究者から集中砲火を受けたり、兄弟子の松根東洋城の芸術院入りを斡旋しながらも、「あんたは尊敬する芭蕉でもなんでもない、そういう風だと思っているなら大間違いだ」と放言して松根門下に嫌味を言われたなどいい例だろう。

 漱石門下でありながら、一部の同門から蛇蝎の如くに嫌われたのはそういう所に起因するのであろう。

 また、漱石一門でありながら、漱石の遺族とも折り合いが悪く、漱石を崇拝するあまりに遺族や親類を批判する態度から、「漱石神社の神主」とまで揶揄されるほどであった。

 小宮の奮闘により、漱石が「立派な文学者」「稀代の作家」と名が残ったのは事実である。しかし、漱石の欠点や門弟の軋轢までを握りつぶしてしまった。これは今なお論争になる所である。

 そんな小宮であったが、私生活では意外に洒落っ気があり、話せばわかる柔軟な人であったという。

 話さえ合えば、どんな相手でも間口を開くのは漱石の美学を受け継いだのだろうか。親子ほどの差がある戸板康二にさえも親しく声をかけたのは、いい点であろう。

 小宮豊隆もまた一人の人間で、失敗もするし茶目っ気もある――というそんな事を考えさせてくれる逸話ではないか。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました