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大陸息子
ある出征兵士の家で息子が帰ってきた。自慢の兄が帰って来た事を喜ぶ凸坊は家を訪ねて来たおじさんに自慢話をする。
「昨日建吉兄さんが帰って来た。その声の大きい事。雷様でも落ちたんじゃないかという声だった。雷様かと思ったら兄さんの声だ」
「へえ大陸から帰って来ると違うねえ」
「もしやと思って外に飛び出したら電柱におでこをぶつけた。でもこれが電柱じゃなくて兄さんの足なんだ」
「あれ、そんなに大きな足なのかい」
「家の前に電信柱があるわけがないと空を見上げると、二階の屋根くらいまで届く建吉兄さんがニコニコ笑っていたんだよ」
凸坊は調子に乗って兄のある事ない事を話し始める。
「兄さんが家に入れないから戸を外したり家を壊す大騒ぎ。今度は足を洗ってもらうのに足を入れるものがない。大きなたらいを持ってきてやっと入れてあげた」
「ご飯を一緒に食べたけど、お鉢にイッパイあったのが一瞬でなくなった。それでも腹が一杯にならなかった」
それを見ていた凸坊の父親はおじさんが帰るのを見ると、「コラ、凸坊!」と説教をはじめた。
「お前のような馬鹿野郎はおらん。兄が大陸から帰って来たってあんなことを言う奴があるか。よくそんな空々しい事が言えたものだ。だから世間はお前を馬鹿だ馬鹿だというんだ」
「でも、兄さんが立派だといえば、僕を恐れて友達が僕をイジメなくなるよ」
「その考えが間違っておる。世の中は謙遜が大切なんだ。昔、父さんは富士山へ行ったことがある。富士山の近くの茶屋で休憩していて、店の人に『ああ、富士山は日本一の山ですね』といった。そうしたら、店の人は『私らは朝夕拝見しておりますので、立派な山とは思えません。ただの山です』というんだ。それで『そんな事はない。あれほど立派な山はありません』というと、店の人は『立派なように見えますが半分は雪でございます』といった。その言葉を聞いてますます富士山が立派に見えた。お前のように自慢をしていては立派に見えるものも見えなくなる」
それを聞いた凸坊は考えを改めて、知りあいのおじさんの対応をする。
「ああ、凸坊かい。建吉兄さんがお帰りになったと。なんだ立派になったと横町のおじさんから聞いたよ」
「いいや、とても小さくなって萎びて帰ってきました」
「小さくなった? 横町のおじさんは余りの大きな声に驚いて外に出たら電柱かと思った、といっておったが」
「うん、外に出たら余りにも小さくなった建吉兄さんを踏みつぶしそうになった」
「いやだなあ、たらいを上げたら指の先しか入らないといっていたが……」
「茶碗の中に水を入れたら喜んで体を洗っていたよ」
「それじゃカナリアかメジロだよ。ご飯もおひついっぱい食べても腹が一杯にならないといっていたが」
「ご飯粒五粒も食べたら腹いっぱいになってしまった。それも横となると入らないので金槌でひっぱたいて食べていました」
「夜になると掛け布団三枚使ってもまだおへそが出たって話だが」
「その掛布団は猫の布団さ」
「でも、鼾は飛行機と戦車が一緒に来たような凄まじいものだったって」
「時々、息が止まっているんじゃないかってくらい小さな声だったよ」
「それじゃ大陸で虫と間違えて牛を潰したって話は」
「そりゃ虫だよ」
「なんだ、それじゃ大きな違いじゃないか……」
すると、奥から建吉が顔を出して「これはおじさん、お久しぶりです」と礼をする。筋骨隆々たくましくなった建吉を見ておじさんは「なんだい、凸坊。建吉兄さんはこんなに立派になっているじゃないか」「それは大陸に行って働いてきたので随分と汚いですから、大きいといっても半分は垢ですよ」
子供の時間 新作お伽落語集
昭和のナンセンス落語の名手、柳家権太楼の新作――であるが、内容を見てピンッと来た人もいるだろう。「半分垢」の焼き直しである。
「半分垢」は相撲取りの話で、相撲取りの奥さんが旦那の体格を自慢する。それを聞いた旦那は「俺が立派に見えるのも贔屓のお力であり、身体は半分垢のようなものだ」と謙遜するように戒める。次来た人にはあべこべの事を言い、「うちの旦那の体格は半分垢でございます」とオトす。明瞭な作品なのでやりても多い。
完全に半分垢をなぞっているだけであるが、権太楼は戦時中この落語を得意としてやっていた。子供の演技が得意だったので、結構受けたに違いない。
レコードも残っていて、1941年5月、リーガルレコードから発売をしている。これで一応の芸風や筋は知る事ができる。
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