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旅に病んで・武蔵家嘉市(初代)
人 物
武蔵家 嘉市
・本 名 犬飼 嘉市
・生没年 ??~1893年9月13日
・出身地 愛知県?
来 歴
武蔵家嘉市は浪曲が浮かれ節と呼ばれていた時代に活動していた人物。武蔵家嘉兵衛と書く場合もある。二代目嘉市は息子であるという。
経歴等は不明。東海道中心に浮かれ節で人気を博していたそうで、弟子なんかも結構いたらしい。港家小柳丸・小柳系の系譜をたどるとこの人にぶつかるという。
明治7年3月、倅の亀吉が誕生。この子が二代目嘉市となった。岡本文弥の随筆や新聞に出て来るのはこの人。ちなみに妻は嘉市の曲師をやっていたらしい。
明治25年(1892)2月13日、静岡市伝馬町にあった木賃宿・信州屋の片隅で死去。旅先での死と考えられている。
『月刊浪曲66号』の連載、朝比奈勝『うかれ節挽歌』によると、嘉市の死後、信州屋の主人・田中吉作が懇ろに供養をし、菩提寺の圓光院に納めた。その墓が余りにも立派なので、後年田中家の人々は嘉市の墓が田中家の墓だと勘違いしていたという。
圓光院の過去帳には「明治二十五辰年 賢誉聲應武蔵居士 犬飼嘉一事浮如レ節」とある。
戦後、田中家は静岡を離れ、墓を整理したため関係は殆ど途切れたが、嘉市の墓は圓光院に残され、保存される事となった。これは今日も残されており「元祖浪曲」の立て看板が立てられていて、関係者がブログにあげていたりする。
なお、芝清之は二代目武蔵家嘉市を継いだのは、三代目木村重正、というような事を系図に書いてあるが、これがよく判らない。
重正という人は昭和に入ってから売り出した人であり、駆け出しのころには二代目がいたはずである。その二代目から譲られたとしても、三代目か四代目になるのが必定。なぜ、倅嘉市(亀吉)の存在を抜いて、木村重正を二代目にしてしまったのか、全く見当がつかない。
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