140キロの浪曲師・東家楽鴈

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140キロの浪曲師・東家楽鴈

若かりし頃(1911年頃)

 人 物

 東家あずまや 楽鴈らくがん
 ・本 名 田中 善至郎 
 ・生没年 1894年11月2日~1930年5月25日
 ・出身地 東京

 来 歴

 東家楽雁は、戦前活躍した浪曲師。140キロという大巨漢を持ち、それでいて愛嬌と艶のある浪花節を得意とした。戦後、三代目廣澤虎造を継いだ虎之助は実の息子。

 出身は東京。『日本浪曲史』などによると「提灯屋の倅」だったらしい。生年と本名は『芸人名簿』から割り出した。

 13歳の時に二代目東家楽遊に入門。15歳の時に、神田松ヶ枝で初舞台を踏んだ。「東家楽がん」と名付けられた。後年、「楽鴈」と定着する。

 若い頃は美貌で知られ、美少年であったらしいが、一枚看板を揚げるころにはブクブクと肥り出したという。

 そのくせ、水泳や相撲が好きで、やるのも見るのも両刃遣いという「動けるデブ」であったというのだからおかしい。

 真打になったころには、38貫目(143キロ)余りの巨漢になってしまった。それでいながら、美声を出し、軽妙で面白みのある啖呵や諧謔を吐いた。

 とことん寄席打ちの芸人で、小屋が手ごろで有ればあるほど、その啖呵や諧謔が生きたという。見事な貫禄の中から繰り出される粋で艶のあるセリフ回しや節に江戸っ子たちは喝采を送った。

 師匠の楽遊の関東節を私淑しつつも中京節を折衷したような節まわしが得意で、啖呵は折紙付きだったという。内田惣十郎などは、春日清鶴、東家楽浦と共に啖呵のうまい浪曲師としてその名前を挙げている。

『吉原百人切』『南京松』『うずら権兵衛』『寛政五人男』などと侠客物、『忠臣蔵』『累ヶ淵』『成田利生記』『乃木将軍』『正直車夫』などの堅いものまで、自由自在に読み切った。

 後年、浅草や東京市内の寄席を何軒も掛持ちする程の人気を集めたというのだから大したものである。

 もっとも、熱演のし過ぎて座っていた椅子を壊したり、テーブルを壊したり、と巨漢ゆえの失敗も随分あったという。また、バスに乗り切れず、ステップに足を引っかけては警官に叱られるなど、日常生活は結構苦しかったらしい。

 1917年、中気を発症し、入院。これが原因で20キロ近く太ったというのだから一種の病気である。こうした体調の悪さ、太り気味ゆえの身体の不安定さは後年の夭折に繋がった模様。

『都新聞』(1917年8月5日号)に、

 ◇お宝の廻る事に於て、東家一門に上越するものはあるまじといふ。その一門で楽遊系の若手楽鴈は角力も強く、水泳も巧み、芸も余裕がめっきり出た上に味を持ってきたと喜ばれてゐた処が、ふとした事から中気が出て、目下はひいきの病院長が大丈夫、元にしてやると請負って入院してゐる。何しろ廿三貫あつた体が発病してから廿八貫目という肥り方、それで舌がもつれてゐるのだから気の毒なものだ

 とある。もっとも、この時の発作は軽度に収まり、間もなく復帰して寄席の客を歓喜させた。

 1922年9月29日、息子の武雄が誕生。この子は後年、浪曲師となり、三代目廣澤虎造を襲名している。

 1925年7月、オリエントレコードより『満洲血染の地図』を発売。これは日文研で聴ける。

 1925年8月、オリエントレコードより『小田小右衛門』を発売。これも日文研で聴ける。

 1926年1月25日、JOAKより『善悪二葉松』を口演している。

 1926年7月24日から26日まで、『乃木将軍』『正直車夫』『満洲血染旗』を三夜連続で口演している。

 子供を浪曲師にするつもりはなく、「聞いちゃいけない」と言っていたそうであるが、死ぬ直前には倅の武雄を寄席に連れて歩くようになった――と、武雄自身が「浪花節一代」の中で語っている。

 1930年5月24日、両国国技館へ相撲見物に行き、好きな相撲を沢山見て帰宅。その直後、俄に苦しみ始めて、昏倒。医者を呼んで手当てを受けるも予断を許さない状況が続き、25日の午後4時ころ、静かに息を引き取った。

 死ぬ直前に吹き込んだ『吉原百人切』は、1931年2月、オデオンレコードより発売されている。

 残された息子の武雄は、その6年後に楽鴈と兄弟分であった木村重松に入門。「木村重春」として浪曲師としてスタートをし、重松死後、廣澤虎造門下に移籍して「虎之助」。最終的には三代目虎造を襲名する程に出世した。

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