浪曲界の野口英世・大洋州呑海

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浪曲界の野口英世・大洋州呑海

 人 物

 大洋州たいようしゅう 呑海どんかい
 ・本 名 柴山 繁太郎
 ・生没年 1902年~1953年6月16日
 ・出身地 福島県 朝倉郡

 来 歴

 大洋州呑海は戦前戦後活躍した浪曲師。幼い頃の事故で右手の指の大半を失うほどの大けがを負い、障害者となるものの、浪曲師となって大幹部に昇進、故郷に錦を飾ることに成功した。

 芝清之『浪曲人物史』によると、生まれは福島朝倉郡。2歳の時に事故に遭い、右手の指を4本失った。そのため、呑海は生涯、右手がほとんど使えず左手で用事をこなしていたという。

 指を失い、満足な治療もなされぬまま、鬱屈した呑海少年を救ったのは時折街に来る浪曲であった。

 9歳の時、浪曲師になりたいと親に直訴。親は「芸人なぞ……」と強く反対したようであるが、指がなくとも出世できる道はこれしかないと親を押し切り、承諾を得、1910年、敷島大蔵の門下に入った。

 ただ、幼すぎたこともあってか、初舞台は10代に入ってからである。師匠に連れられ全国を巡業。長らく師匠と共に名古屋を拠点とした。

 師匠譲りの『忠臣蔵』や『忠僕直助』といった堅い読み物を得意としたほか、当時勃興し始めていた東家楽燕や京山若丸の「軍事浪曲」というべきジャンルでも頭角を現した。

 とにかく声が大きく、美声であることが知られ、ウレイのある中京節を巧みに混ぜ込む点は白眉であったという。

 20代で独立して「大洋洲呑海」と改名。当時の南進論や日本軍の目標をふんだんに生かした芸名ともいえる。そうした点でも後年の軍事浪曲は必定だったのかもしれない。

 1928年5月16、17日、名古屋放送に出演し『大河内家の内乱』を放送。26歳にして一枚看板として優遇された。

 1928年6月、ニッチクより『尾上伊太八』を吹きこみ。

 1930年2月14~17日、名古屋放送より『お末の忠節』を4日連続放送。

 1931年5月13、14日、名古屋放送より『大西郷と島田』を放送。

 1931年11月5~7日、名古屋放送より『因果小僧』を3日連続放送。

 1932年2月、タイヘイより『大西郷と島田一郎』を吹きこみ。これらは日文研で聞ける。

 1932年3月、キリンレコードより『因果兄弟』を吹きこみ。

 1932年6月、タイヘイより『肉弾三勇士・北川一等兵の母』を吹きこみ。

 この頃、タイヘイからテイチクに移籍。

 1932年10月、テイチクより『関根の義臣 (大石関根出合)』を吹きこみ。

 1932年12月、タイヘイより『西南の役』を吹きこみ。

 1932年12月1日、名古屋放送より『肉弾三勇士』。2日、『女武士道』を放送。

 1933年12月テイチクより『赤垣源藏 (徳利の別れ)』を吹きこみ。

 1934年9月6日、名古屋放送より『赤垣源蔵徳利の別れ』を放送。

 この後、名古屋放送がNHKに合併・吸収されたために主にレコードで活躍する事となる。テイチクレコードとは長く専属関係だったとか。

 1935年5月、テイチクより『少年武士道 矢頭右衛門』を吹きこみ。

 1935年の番付では、前頭16枚目。前頭筆頭が玉川勝太郎、続いて浪花亭綾太郎なのでインフレが凄い。

 1937年1月、テイチクより『涙の君が代(前篇)』を吹きこみ。

 1937年5月、テイチクより『涙の夕刊売(前篇)』を吹きこみ。

 1937年6月、テイチクより『(皇国の興廃此の一戦) 最後の最敬礼 (前篇)』を吹きこみ。

 1937年11月、テイチクより『北平のお義』を吹きこみ。

 1937年12月、テイチクより『(軍国美談) 母の手紙 (山内中尉の母堂)』を吹きこみ。

 1938年3月、テイチクより『検事とその恩師 (前篇)』を吹きこみ。

 1939年2月、テイチクより『音信はないか』を吹きこみ。

 1939年4月、テイチクより『軍国子守唄』『出征瞼の父』を吹きこみ。

 1939年5月1日、NHK名古屋より『忠僕直助』を放送。

 1939年5月、テイチクより『盲目召集令』を吹き込み。

 1940年1月、テイチクより『カタカナ忠義』を吹き込み。

 1940年3月、テイチクより『戦友』を吹きこみ。

 1940年6月、テイチクより『霧の夜話』を吹きこみ。

 1940年11月、テイチクより『人生双六』を吹きこみ。

 1941年1月、テイチクより『錦城の名華』を吹きこみ。

 1941年7月、テイチクより『若き日の長政』を吹き込み。

 ことごとく戦争ネタなのが凄い。作者もいたとはいえ、これを独自に解釈し、すぐ演じられたのはすごい。功罪は兎も角、戦時中の人気はすごく、観衆の涙を絞らせたという。

 1941年の番付では、「別座」として筑波雲、木村友忠と共に登録されている。

 1943年の番付では「名将」として東光軒寶玉、東天晴と共に登録されている。

 戦後は得意だった軍事浪曲のほとんどが封じられ、さらに忠臣蔵なども演じづらくなってしまった。また、戦時中の行動から「浪曲戦犯論」のような揶揄もされ、色々と苦しんだという。

 1950年の番付では名流扱い。

 地方巡業や焼け残った寄席で再起を準備、人気も復活した矢先の1953年、事故に遭遇して夭折した。

『浪曲ファン』(1977年10月20日号)によると、「翌二十八年の六月に、市内の仕事の帰途、暴走車にハネられて急死されたのは、かえすがえすも、痛恨の極みであった」とある。

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