人力車夫出身の木村重治

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人力車夫出身の木村重治

 人 物

 木村きむら 重治しげじ
 ・本 名 松葉 栄五郎 
 ・生没年 1869年3月3日~1920年7月
 ・出身地 ??

 来 歴

 木村重治は浪花節黎明期から大正にかけて活躍した浪曲師。木村重勝の直弟子で、明治末には関東節の名人として鳴らした。しかし、晩年は養子を失った上に自身も病気で倒れるなど不遇であった。

 本名と生年は『芸人名簿』から割り出した。

 前歴に謎が多いが、『浪曲家の生活』によると元々「人力車の車夫」だったという。長らく車夫稼業をしていたというが、浪花節が好きで浪花亭重勝の弟子になった。

 当時としては珍しい20歳を過ぎた中年の弟子であったと聞く。それでも重勝の薫陶を受けて、見る見るうちに頭角を現した。

 1903年11月頃、京橋延寿亭にて「浪花亭重治」として看板披露を行っている。事実上の真打になったとみてもいいだろう。

 その後は重勝門下の才人として、重松、重正と共に三羽烏として謳われた。その技量は師匠よりもよかったそうで、『天鼓』(1906年2月号)の中で、

▲浪花亭重勝
重勝の門弟に重松といふ者あり、押し出しも立派にて声も充分にあり、藝は未熟なれども、売れッ児の一人也。
重勝の門弟に重治といふ者あり、節を様々に苦心して俗に所謂思案に能はぬ傾きあり、されども真打也。
重勝の門弟に重子といふ者あり、年齢僅かに二十二にして已に真打也、しかも其技藝亦侮る可らざるものあり。
重勝の門弟に真打ち三人あり、重勝は弟子作りの名人也、而して三人とも重勝以上の売れッ児也、技倆は弟子師匠似たり寄ったりなる可しら、
重勝遠からず業を廃して、門弟の掬育と同業者の団結に力を注ぐべしと、誠に好き分別といふべし。重勝は元来高座の人にあらず、然れども話しは少しく分かる方なれば、退いて楽屋王たらんとするは人助かりも身助かり、最も策の徳たるもの歟

 と冷やかされている始末である。

 師匠譲りの『国定忠治』『怪談伊東の鶴』などといった旧作から徳富蘆花の『不如帰』といった新作まで幅広くこなしたと聞く。さらに、余芸として「節真似」も演じ、これも人気のタネであったという。

 非常にサビのある関東節を得意とし、独特のある節回しは「不得要領節」と綽名され、重松同様に寄席打ちで活躍した。

 一方、重勝からは「アイツは見込みがある」と目をかけられ、当時の幹部である一心亭辰雄にも「アイツはモノになるから可愛がってほしい」と紹介するなど、重勝お気に入りの高弟であった(『浪花節一代』より)。

 1911年8月、三光レコードから『不如帰』を吹きこんでいる。この時の名義は浪花亭重治。

 明治末、師匠の重勝が二代目駒吉と喧嘩をして、「木村重勝」と改名したのを機に、自身も「木村重治」と改名している。

 その後は寄席を中心に活躍。明治末から大正初期にかけては寄席読みの名人として謳われたそうで、何軒も掛持ちする程の人気があったという。

 1918年頃、妾の子どもを養女として迎え入れ、大切に育てたが、1920年に死去。その喪中に自身も卒中で倒れ、そのまま病臥するようになってしまった。

『都新聞』(1920年5月25日号)に、

 重勝の弟子で、仲間内では不得要領節といつていた木村重次は、高座で唇をなめ/\物真似などとて人気があつたが、浅草猿若町に住んでゐたが、妻女がないので貰い子すると、二、三年前から妾にした三味線ひきの太った女に子供が出来て大喜びだったのも束の間、今年二つで死んだので、愁傷の折柄、中風症に罹り、家の中を歩く事さえ出来なくなつたので、三市場亭で此の間、有志の者だけで読切りを開いて、揚がりの内、純益二十何円かを慰問の為に贈つたさうな。美談ではないか。

 とある。

 その後、養女を失ったショックをぬぐえないまま、病気のために亡くなった模様。『都新聞』(1920年7月18日号)に、

▲此の間この欄で記した木村重治は可哀さうに数日前にあの世へ行つた

 にある。

 一心亭辰雄こと服部伸は『浪花節一代』の中で、「日光の方を巡業した際、宿屋でうつらうつら昼寝をした。すると夢枕に重治が現れ、『長らくお世話になった』としきりに礼を言う。目を醒ますと仲間が飛んできて『重治が死んだ』と伝えた。死んだ時刻は自分がうつらうつらしている時とほぼ同時刻であった」という不思議な逸話を紹介している。

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