桂米朝幻の原稿 ~亭號のはなし~

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桂米朝幻の原稿
~亭號のはなし~

 先年亡くなった桂米朝は、落語家になる前に、寄席研究家で作家の正岡容の処に出入りしていたのは有名な話である。

 当初は、正岡容と同じ道を志したが、正岡の勧めに従い、桂米團治に入門。落語家になった――とは、本人の自伝にも記してあるので、詳細は略す。

 桂米朝と名乗る前――中川清といっていた時分の事である。彼も師匠の正岡容の活動や公演に参加し、物書きの真似事や評論まがいの雑文を何作か残している。その頃の作品の多くは、『桂米朝 上方落語大全集』などに収録されており、若き日の彼の熱情がうかがえるが、まだまだその頃の資料や謎は、未発見のまま残っているようである。

 さて、本題に入ろう。先日、国会図書館に残るカストリ雑誌を調べていたところ、『寄席』なる雑誌が、残っていることを発見した。1946年10月、第一巻発行、12月第二巻発行して廃刊――というのだから、「三号でつぶれる」カストリの見本である。

 然し、その執筆者はそうバカにできたものじゃない。

 監修は正岡容。その関係者が大半を占めているが、今日ならばどれだけのギャラが発生する事か――と思うような顔ぶれである。幸いメモを控えておいたので、一号、二号の顔ぶれを記すと、

第一號 目次

「寄席回顧」序歌 吉井勇
保存を忘れた國民 村松梢風
麹町の寄席 古川緑波
思ひ出の新内人 岡本文彌
初代木村重松 山野一郎
「らくだ」とボタトール 吉野機司
舟徳 戸田運也
寄席通と食通(一) 山本素葉 
桃川燕雄 中島岩雄
歌笑の場合 巳野歳男
高座捕物帳 小言幸兵衛
木原亭 斎藤豊吉
おとッあんのこと 伊志井寛
永樂館 長谷川幸延
燈下餘言
表紙・伊藤晴雨 飾絵・花又花酔 同・松岡巌 扉絵・桂小文治

第二號 目次

その昔 藤蔭静枝
支那の寄席 森三千代
素人月旦 城昌幸
 八月二十二日と小勝 古谷綱武
速記の今昔 今村信雄
わが酒中日記 東富士郎
亭號のはなし 中川清
寄席通と食通(二) 山本素葉 立川談志 巳野歳男 
寄席掛持記 梅松さくら 身の上話 服部伸
越山さんのこと 杵屋五叟 
おみつ 水島爾保布
寄席芝居の咄 伊藤晴雨
歌川絹枝の父 正岡容
燈下餘言
表紙・伊藤晴雨 扉、カット・松岡巌 カット・花又花酔

 上のリストからもわかるとおり、第二号の執筆者の一人に、若き日の中川清――桂米朝がいたのである。これは、未発掘資料の一つではないだろうか。

 掲載は1946年12月、執筆は末尾を見る限り、同年8月――ということは、桂米朝、21歳の夏である。学徒出陣から復員してきて、やっと寄席復興の灯が見られるようになった――そんな時期にこれは書かれたのであった。

 もし、発見されていて、公開されていたならば、こちらの見当違いになるが、いずれにせよ陽の目を見るだけの価値のある資料であるので、ここにまるまる引用してみよう。

 まだ不器用で、何処かぎこちない文体であるものの、落語への情熱や愛が感じられる作品である。後年の米朝落語はこんな情熱と愛情から生まれてきたのは言うまでもないだろう。

 亭號の話 中川清 

 落語家の名前について記してみる、或はこんな事は誰でも知ってゐる事かも知れない。それは所謂亭號と下の名前の關係である。翁家さん馬とか文の家かしくとか三升亭芝楽等は上下揃つて一つの意味を爲すもので、これは離すわけにはゆかぬ。元来、三遊亭と云つても古今亭と言つても、或は橘家と言つても蝶花樓とか言つても下の圓生とか志ん生とか言ふ名前とは連關のあつたものに違ひないが、弟子が無暗に師匠の名から一字貰つて師匠と同じ亭號の下へつけたりする事から今日の様に亂雑になつてしまつたのだらう。例えば春風亭柳枝なら春風に柳の枝で意味が通ずるのをその弟子が春風亭柳太と名乗るとこの場合は亭號と名前とは無意味な繫りになつてしまふのである。
 さて、下の名前には、圓太郎三木助正蔵等の如きものと、圓生馬楽松鶴燕枝等の様な號の如く思はれるものとがある。丁度俳優に於る名前と俳名、團十郎菊五郎歌右衛門鴈治郎等に對し三升梅幸芝翫翫雀等のある如くに。
 で、――亭とある場合と――家等とある場合と下の名前が違ふのが本當ではないかと思はれるのである。即ち圓太郎三木助等の前者は橘家、桂、林家等を冠し、圓生馬楽等の後者は三遊亭、蝶花樓、笑福亭。柳亭等の號を置く。これが本来の姿であらう。
 橘家と三遊亭とは親戚の様な關係になってみて、名人圓喬は橘家と三遊亭とを併用したさうであるがやはり本來の意味から云ふと三遊亭が正しいのではないか。同じ三遊亭から出た圓太郎が亭號をつけずに橘家を創始したと言ふ事も頷ける。圓蔵圓太郎蔵之助小圓太等、橘家には號に類するものはない。圓生名も代々よく圓窓、圓蔵、圓生の順を經てあるが圓窓の時は三遊亭を名乗り、圓蔵となって橘家となり圓生になって又三遊亭となる。
 柳家と柳亭も同じ様な關係である、小さん小三治つばめ三語樓権太樓等は柳家の方で、燕枝左樂燕路芝樂等は柳亭の方である。
 金原亭馬生といふ名は、昔、金原野といふ野原に幕府の牧馬場があった故かゝる名を生じたさうだが、同じ一門の馬の助の方は金原野と称してるる。これもといふ號によって始めて金原亭と名乗るのであらう。
 小さんは初代は春風亭小さんと言つた。やはりその一門だったからであらう。この小さんといふ名は二種のどちらへか分類すべきか一寸迷ふが、どちらへでも持つてゆけ得よう。二代目は小三金五郎からの洒落で、禽語樓小さんと稱し、三代目から柳家小さんと落ちつき、現四代目に至ってゐる。
 上方でも松鶴枝鶴等は笑福亭であり、文治春團治三木助文三文團治文之助等は桂姓である。先代文都が桂を名乗らず月亭と稱したのは深い理由は知らないが、文都に對しては月亭が正しい。月亭とは月の桂といふ洒落でゞもあらうか。だから桂文我とか笑福亭福松とかは例外とか、或はもう後世だから亂れた結果だとか言ひたい。東京で古今亭今松、桂文集等は例外の方だ。
 大阪の林家染丸老は近年林染號としたが、それは単に林染と名乗るのみで別に亭號はないらしい。橘ノ圓といふ名はよくできておる、これなど二種以外の特例だらう。
 今一つ、今輔玉輔春輔圓輔等といふのがあるが、皆上が古今亭であり五明樓であり三遊亭である、これはちとこじつけかも知れぬが何輔と言ふ字面の固さから亭號につけても不自然でなく感ずる爲かも知れない。
 これらの名前には随分凝つた好いのがあり、それぞれに關する由来や逸話も少くない。三遊亭遊三は助高屋高助が賣り出したのに思ひついてつけたさうだし、初代三遊亭圓生は山遊亭猿松の字を變えたものと言ふ。三升亭芝楽は團十郎の俳名三升と十八番の暫とからつけ、翁家さん馬は翁千歳三番叟よりのもの、船遊亭志ん橋は船遊びの新橋の意、春錦亭柳櫻は例の柳さくらとこきまぜて都ぞ春の錦なりけるの本歌取りといふ雅なものだ。
 講釋の方は、流石に先生と言はれるだけ難しく、錦城斎典山昇龍斎貞丈清草舎英昌、西尾鱗慶笹尾燕旭堂玉田玉秀斎一立斎文車等、と随分固苦しいが、又、邑井貞吉神田伯山神田ろ山なんてのもある。更に凝ったのでは、秦々斎桃葉が、大學にも引かれてゐるが詩経の桃之天天其葉秦秦、の句よりとつて居り、放牛舎桃林の方は書経で放㈡千桃林之野㈠よりとつてゐる等、大したもの。神田松鯉といふのは榊田マツリの酒落だと言ふから嬉しい。變つたのでは蜻蛉切り平八といふ釋師があつた。修羅場でお馴染みの本多平八郎の槍の名が蜻蛉切りと言つた事は言ふまでもなからう。浪花亭綾太郎が十八番の浪曲「壺阪霊験記」で有名な「名月や浅黄に銀の一つ紋」といふ句はこの平八の作だと、桃川燕雄から聞いた。 大分餘談に捗つたが、これらに關して非常に参考になる「落語系圖」やその他文献類を儘く焼失、田合住ひとて借覧能はず、この様なとりとめなき文になったが、何れこれに關しては、 もう少し研究を進めたい。

昭和二十一年八月二十一月 (筆者は寄席文化研究家)

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