記憶力抜群の三河家円車(三代目)

浪曲を彩った人々

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記憶力抜群の三河家円車(三代目)

 人 物

 三河家みかわや 円車えんしゃ(三代目)
 ・本 名 加藤 鐵太郎
 ・生没年 1901年~1970年12月5日
 ・出身地 東京

 来 歴

 三河家円車(三代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。春日清鶴の弟子であったが、わけあって三河家円車を襲名し、別派を形成した。ドンドン節よりも新作、モタレの名人として知られた。

 前歴は不明なのだが、どうも二代目三河家梅車の倅ではないか――という線がある。

『芸人名簿』に出ている梅車(加藤彌吉)の本名と住所(浅草区)と、円車の本名と住所が類似している点が一つ。

 もう一つは、春日清鶴門下だった彼が三河家円車を継いだという謎を考える上で――父親が三河家宗家の梅車だったと考えれば、御曹司の彼が円車を継げる道理は一応ある。そんな名前の系譜的にも辻褄が合う。

 1910年代後半に春日清鶴に入門。「春日亭小清鶴」と名乗る。1915年の芸人名簿にはその名前はないので、15歳前後での入門か。春日清鶴を頼った理由は不明。父親の梅車と仲が良かった関係もあるのだろうか。

 芸豪と呼ばれた清鶴、更に名人と謳われた大師匠の春日亭清吉の薫陶もあって、メキメキと頭角を現した。

 1933年1月、浅草音羽座の寿々木米若公演に列席。部外者ながら米若の前を読む栄冠を得ている。

 1934年夏に、三河家円車を襲名。しかし、この襲名を巡って春日清鶴の逆鱗に触れ、破門されてしまった(ただ1928年に三河家小円車が円車を襲名しており、錯綜が激しい)。

 その師弟の間に林伯猿が間に入り、預かることとなった。

 以降、伯猿を中心に、東家楽浦、玉川勝太郎、篠田実などの一座に出向き、他流試合に明け暮れた。中でも玉川勝太郎は彼の芸を気に入り、彼を重宝した。そうした大看板の叱咤激励もあり、モタレを読むほどにまで出世した。

 凄まじい記憶力の持ち主だったそうで、人のネタを数回聞いてすぐ口演をして見事にまとめる、昼間見てきた映画をすぐさま再構成して浪曲に仕立て上げる――などと、才気抜群であったという。

 しかし、その才気が爆発し過ぎて戦前は官憲と喧嘩をする事もあった。

 1938年春、玉川勝太郎一座に伴って朝鮮・満州を巡業したが、途中で官憲のストップに遭い、これに反抗。一夜拘留される羽目になった(『実録浪曲史』)。
 
 1943年7月、春日清鶴に破門を許される。破門の経緯と復帰のそれは『都新聞』(1943年7月15日号)に「十年振りで師の許へ復帰 清鶴圓車を結ぶ伯猿の義侠」

 今から十年程前、春日清鶴に小清鶴といふ門人があり、子飼ひからの弟子とて一入目をかけてゐたが小清鶴はある縁故から人の勧めに任せ、若年の軽率から師匠にも相談せず、三河家圓車の二代目を襲名した。
 圓車と言へば、明治末期から大正へかけて、ドンドン節で知られた関東浪界の名前で、その大きな名を、小清鶴ごとき未熟者が相続するなど、身の程知らぬ僭上の沙汰、〇〇を取潰すのも甚だしいと烈火の如くに怒つた清鶴は立ちどころに小清鶴を破門してしまった
 折角の大看板は継いでも技芸相伴はぬ円車は師匠に見放されて途方に暮れてゐるのを林伯猿が見兼て中に入り、必ず円車は自分が責任を以て一人前に仕立て、円車の名を辱かしめぬ様にしてお返しするから十年間預けてくれるやう清鶴に誓ひ清鶴も伯猿の侠気を感じて一任した
 爾来伯猿の激励、本人の努力の効あつて円車も、米若、実、勝太郎等の切前を語る程の位置に進み、実力も認められるに至つたので風雪十年の久々に、伯猿からあらためて清鶴の手に円車を返還、再び師弟たるの縁を結んだといふ、大看板激励の今日床しい話題である

 戦後も勝太郎一座のモタレとして同行し、勝太郎が病むまでの間、相応の地位にいた。唯二郎『実録浪曲史』の中で、

二代目勝太郎のモタレを読み、「あいつに目一杯叩かれると俺がトンじゃうよ」といわせた。昼間みた映画を夜には板にかけ、ケレン味のある舞台で客にはよくうけた。

 と、その芸を論じている。

 また、戦後のテレビやラジオの勃興に際し、「ドンドン節の円車」とかけてドンドン節を演じる事もあった。テレビやラジオで演じた様子が確認できる。

 一方、この「ドンドン節の円車」は良くも悪くも円車の固定イメージとなり、どれだけ芸がうまくてもドンドン節を求められるという矛盾に陥った。番付でも正式な番付には入れられず、「ドンドン節」という形で組み入れられていることが多い。

 晩年は浪曲だけでは心細いと思っていたのか、自主興行をやって暮らしていたという。娘の一人は俳人の松澤昭に嫁いだそうで、松澤は一度円車に頼まれてニワカ興行師をやったことがある――と『日本及日本人』(1979年9月号)の随筆「伊豆の踊子」の中で松澤自身が語っている。

 1970年12月5日、死去。69歳。唯二郎は円車の死を紹介した上で、

この円車といい、清鶴・武蔵・秋斎などは、浪曲で最も大切な、個性的で独創的な芸風の人たちである。

 と回顧している。

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