男勝りの桃中軒女雲右衛門

浪曲を彩った人々

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男勝りの桃中軒女雲右衛門

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 女雲右衛門おんなくもうえもん
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 桃中軒女雲右衛門は戦前戦後活躍した女浪曲師。「女雲右衛門」というから、浪曲中興の祖・桃中軒雲右衛門の弟子のように見えるが、実際は関係を持たなかった。雲右衛門張りの大音声と長髪、男勝りの舞台で人気を博し、浪花節黎明期のスターであった。

 前歴は謎が多いが、正岡容『雲右衛門以後』の中には「寄席のお茶子」という記載がある。お茶子から浪曲を独学で学んで浪曲師になったのかもしれない。

 雲右衛門在世時から既に人気があり、一時代を築いていた。唯二郎『実録浪曲史』の中に、

東の大関は女雲右衛門である。いかめしい芸名だが、雲右衛門在世の頃から活躍し、大正七年には南座で、八年には有楽座で独演会を開いている。男装で馬に跨って町回りするなど、目立つ看板の一人だった。

 と、番付と共に紹介されている。

 明治末から「女雲」の名称で各地の寄席に出演。男勝りの芸風と雲右衛門張りの豪快な舞台で注目を集めた。「義士伝」を中心に「小林一茶」「日蓮上人」「正宗孝子伝」「勧進帳」「明石の斬捨」「曾我物語」、時には喜劇的な作品も読むなど、芸幅は広かった。

 1917年12月8日~25日、京都歌舞伎座で開催された「女流浪花節大会」のトリとして出演。

 1918年5月26日~6月2日、南座で独演会を開催。

 1919年7月1日、有楽座で独演会を開催。

 1920年8月1~5日、日本橋新富座で一門会を開催。

 1922年夏、朝鮮半島を巡業。一行は桃山桃子、立花花子、小松静子、良音豪子、良音演子、清原花蝶、末廣玉子。

 1928年3月、ハワイの松尾精一の招きでハワイ巡業へ出発。3月19日、春洋丸に乗ってハワイへ行き、月末に降り立った。メンバーは吉田春子、神路錦、桃莚雲香。

 各地で大当たりをとり、9月には偶然ハワイを巡業していた漫才の松葉家奴一行と合同でハワイを数か月巡った。

 1928年12月末、ハワイから本土行の船に乗り、アメリカ大陸へ出発。正月は船の上で迎えたという。

 1929年1月、アメリカに降り立ち、1月ほど巡演。さらに帰国ついでにハワイへ寄り、また興行を行っている。広告や記事を見ると「大入」が連呼され、相当な当り振りを想像することができる。

 1929年6月に帰国。日本へ戻ってからは凱旋公演を行った。

 1929年7月20~26日まで、早くも京都座で「改造浪曲」と銘打ち、凱旋公演を行っている。十八番の作品の口演の他、「ハワイみやげ」と称して、「ハワイ民謡・カナカ族の歌」なるモノを披露して、客を集めた。

 その後もチョボチョボと寄席や劇場に出ている様子が確認できる。

 1939年11月には岡本小梅嬢と二枚看板で台湾へ巡業。

 1941年の番付にも「女流元老」として紹介されている様子が確認できる。

 しかし、戦後に入るといつしかその消息も途絶え、浪曲界から姿を消す。

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