日露戦争美談の京山春駒

浪曲ブラブラ

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

日露戦争美談の京山春駒

 人 物

 ・本 名 安精 政雄 
 ・生没年 1877年2月5日~1931年
 ・出身地 香川県 善通寺

 来 歴

 京山春駒は戦前、関西を中心に活躍した浪曲師。日露戦争の大激戦・旅順攻撃を生き延び、その従軍体験を元とした浪曲で売れに売れた。

 経歴は、『浪花節名鑑』に詳しい。以下はその引用である。

明治十年二月五日讃岐善通寺に生る、幼少の頃より浪花節を好み、十九の歳国を出で、京山斎一(井谷亀之丞)の門に入り駒吉と称す好きこそ物の上手なりの譬への如く日夜勉強の甲斐あり廿二歳にして大看板となり春駒と改名し卅七八年役に参加し旅順にて功を奏し戦後各地に於て実戦談を読み手好評博したりき。昨大正二年十二月廣澤館主井上氏は実力技芸奨励のため、投票を行し結果一等の月桂冠は同氏の頭上に落つ。

 成人後間もなく出征し、旅順攻撃へと回された。日露両軍が血を血で洗う激戦を目の当たりにし、多くの戦友を失ったが、春駒自身は生き残った。

 帰国後、この悲壮な体験談と日本軍の武勇を合わせた「日露戦争シリーズ」で売り出した。乃木大将を軸に、「旅順総攻撃」「小孤山」「二〇三高地」「乃木将軍美談」など様々な話を持っていた。日露戦争の勝利間もない当時の日本国民からすれば、ルポ的な一面も持っていた事だろう。この一連の浪曲で春駒は大阪を代表する浪曲師となった。

 どちらかというと新作に向いていた節回し・話芸の持ち主だったそうで、日露戦争ネタ以外にも『雪月花三人娘』『渡米美談』『大村子爵家お家騒動』などといった新作ネタを持っていた。

『出石町史第二巻』に、明治末の出石・永楽館に春駒が来た記載がある。曰く、

 今回関西浪界之巨頭京山春駒師避暑旁々当地方へ初めて巡業致され候、小円、若丸、春駒とて京三派の三傑として好浪家へその名を知られたる春駒師の御目見得口演として、外に読む者の無ゐと云ふ天下一品読物、日露戦争実戦談、血を流し死人の山をなしたる恐ろしき旅順攻撃、乃木大将血の涙と云ふ話を特得の大音と巧妙なる節回しを持て来客の御満足を与へる由なれば――

 という。詳しい年月が判明していないのが惜しい限りである。

 1915年10月より、ハワイ在住の興行師・宮田伊之助の斡旋で渡米。女流浪曲の浪花家虎筆、前座の吉川燕流、妻で三味線の京山浅子と渡米――予定であったが、浅子が諸事情で遅刻し、しばらくの間は代理の三味線で勤める事となった。

 1916年6月、宮田伊之助との契約が切れ、自由の身となった。その間、半年ほど、寺院や日本人コミニティ巡りをしている。

 1916年11月、お名残り興行を経て帰国。その後はしばらくの間「帰国凱旋公演」みたいな事をやっていたという。

 1922年6月には、旧日本領の豊原(今のサハリン)を巡演し、人気を集めている(『豊原新聞』1922年6月26日号)。

 1924年1月、東亜レコードから「旅順攻撃小孤山」を吹きこみ。日文研で聞く事が出来る

 1926年8月、特許レコードから「渡米美談」を吹き込み。これも日文研で聞く事が出来る

 1926年9月、特許レコードから「鶏冠山」を吹きこみ。

 その後も堅実な活躍を続けていたようであるが、昭和に入るころから身体を患い、1931年に亡くなったらしい。没年は『浪曲旅芸人』によった。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました