三代目の名後見・吉田奈良右衛門(二代目)

浪曲を彩った人々

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

三代目の名後見・吉田奈良右衛門(二代目)

 人 物

 吉田よしだ 奈良右衛門ならえもん(二代目)
 ・本 名 井川 清
 ・生没年 1896年12月24日~戦後
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 吉田奈良右衛門(二代目)は戦前活躍した浪曲師。吉田奈良丸の妹・吉田小奈良の弟子で、若くして「奈良右衛門」を襲名して一枚看板となったが、後年支配人に転向。本名の「井川清」名義で、三代目奈良丸の支配人として彼を陰から支えた。

 経歴は『増補浪花節名鑑』に詳しい。

 氏は明治二十九年十二月二十四日大阪市西区江戸堀下通三丁目柳席に菰々の声を揚ぐ、十八歳の時即ち大正二年七月下旬天性好める浪界に入らんとし、現大阪警察本部特別高等科刑事部長、長谷川節氏の照会によって吉田小奈良の門に入る、然るに同年八月一日入門旬日ならずして神戸市湊川大和座の舞台に立つ、師匠小奈良を始め聴くもの皆其妙技に驚かざるものなかりき、爾来日夜研鑽怠らず、遂に大正九年七月二十四歳の時推されて彼の奈良丸の愛弟子浪界の寵児と称され其名を好浪家に知られし故奈良右衛門の二代目を襲名するに至る其火を吐く如き豪快なる芸風は、名士いのいたく愛する所にして、舞鶴海軍病院海軍々医総監、石原純固閣下、前大阪地方裁判所検事正山本辰三郎氏等は特別の愛護者たり、師や猶春秋に富む向後活躍や目覚しきものあらん。

 なお、『浪花節名鑑』では本名「幸次郎」となっているが、後年の吉田奈良丸事務所の宛先や代表者の名前は皆「井川清」名義になっているので、井川清が正しいと思われる。

 師匠は二代目奈良丸の妹の吉田小奈良。女流に仕込んでもらった――というちょっと珍しい例である。

 主に師匠譲りの「義士伝」を得意に読んだそうである。兎に角大声の熱演が売りで、24歳の若さで「奈良右衛門」の襲名を許された点などを見ると、相応に実力はあったのだろう。

 それでも浪曲の芸以上に交渉力や計算力に長けていた所があり、芸よりもそちらで思わぬ才能を伸ばす事となった。

 大正末頃まで浪曲をやっていたが、浪曲に見切りをつけてマネージャーに転向。『浪曲往来』(創刊号)の「三代続く対立か」という記事の中で「酒井雲は中川伊勢丸という男を支配人にしていたが、死なれたために元女の弟子だった井川という男を支配人にした」とある。

 酒井雲の売り出しにはいろいろ尽力を注いだらしく、1925年頃、中川伊勢吉や梅中軒鶯童に協力を頼み、雲を関西で定着させることに成功している。『浪曲旅芸人』の中に――

三年後の十一月、二代目奈良右衛門(後に三代目奈良丸の支配人となった井川清)の紹介で神戸大正座へ上って来た酒井雲、この時私も極力斡旋した。

 しかし、この後間もなく酒井雲と喧嘩し、支配人を辞職。三代目奈良丸を襲名した吉田一若の支配人となった。

 以来、三代目奈良丸の売り出しに大きな力をかけ続け、名支配人として謳われた。マネージメントの傍ら、「I・K生」と称して浪曲雑誌に寄稿する事もあったようである。

 自分の後におさまった酒井雲の支配人・田村志佳生とは生涯のライバルで、「雲か奈良丸か」というほど派手にドンパチ火花を散らした。ただ仲はそこまで悪くはなく、「よきライバル」だったようである。

 1934年2月、奈良丸の台湾巡業に支配人として同行。

 1936年、奈良丸のために執筆された新作台本をまとめた「三代目吉田奈良丸脚本集」を発行。

 1942年6月、奈良丸の満洲慰問に随行。1943年9月の満洲慰問にも随行した模様。

 戦後も奈良丸の興行や一門の統括に力を注ぎ、老境をすぎた奈良丸をよく支えた。浪曲が衰退する中でも奈良丸の名声が落ちなかったのは奈良右衛門の経営手腕ありき、といってもいいだろう。

 1970年6月、奈良丸が引退する頃までは健在だったらしいが――?

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました