関西浪曲界の取締役・中川伊勢吉(四代目)

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関西浪曲界の取締役・中川伊勢吉(四代目)

 人 物

 中川なかがわ 伊勢吉いせきち(四代目)
 ・本 名 酒井 寅吉
 ・生没年 1878年11月3日~1946年
 ・出身地 兵庫県 西宮市

 来 歴

 中川伊勢吉(四代目)は戦前活躍した浪曲師。名門・中川伊勢吉の四代目を襲名し、全盛期は広沢虎吉、岡本鶴治と並ぶ勢力を誇り、清廉潔白・円満人徳な所から多くの浪曲師から慕われた。芸の方も名人として知られ、名人位の名声をほしいままにした。

 出生と伊勢吉襲名までの経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。大体これで大体の経歴が分かる。

 大阪親友派を支配する二大勢力家おり、一は鶴治にして、一は即ち氏なりとす、氏は明治十一年十一月三日摂州西の宮に生る資性温良小学校入学以来高等全科卒業迄級席二位を下らず全校模範生して賞讃され卒業後神戸弘徳義塾に通ひ数漢二科目を研究中或る年夏の夜朋父に誘はれ土地の寄席に浪花節を聞く、座長源平盛衰記を試む、よく事柄の判明し約二時間半聴衆を配かさず妙技至り並せり、蹄途成する事あってか翌朝父母に再三の乞ひて経に許され人を介し其當時盲目ながら関西にて一二を競ひし浪界の重鎮西宮町の出所三代目伊勢吉の門下に入り伊勢勝と名乗り昼夜辛酸勉励の甲斐あり日に月に上達す、折しも三代目不幸にして中風症に罹り不得止吉川定吉の許に預けられ、モタレ讀みにして四国、中国、九州を巡業中得る処の月給は一厘も無益に費さず慈善的に投じ又は西の宮に療養中の病師に送り感じるを以て目的ごす、共當時より今に至る 迄父母に孝病師に忠を全せし芸人中の模範者として仙台よりも賞誤され菊地前大阪府知事より感謝状を送られ西の宮貴族員議員辰馬氏よりも我は日本一の酒造家なり君は同じ西の宮出身にて公術こ云ひ又一つには忠孝両全共賞さして是を与ふご大級帳に金若干を送らる加之氏は常に社會中流以下をして人道を全からしめ共の傍ら大和魂を発 揮して徳育を與へ風致を全く矯正せしめんとの趣旨を抱き慈善的典行は遠隔を不問私 費を投じて能く補佐し成功せしめんとす一方には語句と假名追いを誤たざる様能く調べ氏の独特としては試物の旧跡地を調べ針小棒大を止め聴客に滿足を与ふるを以て氏 の本領さす。
氏は大正十一年十二月親交派總取締に薦されたり。

 師匠の三代目伊勢吉は1906年に没しており、しかも最後の数年は病気で倒れていたので、殆ど手ほどきを受けていないという。その中で多くの一座に出入りをして勉強をし、見事に一枚看板へと上り詰めた。

 大音で美声の持主で、語りも理智的で卑しい所がない――という三拍子そろった名人で、しかも多くの師匠や関係者の舞台から学び、自身も学があった所から歴史的逸話や文学作品からも多くの浪曲を語って見せた。

「五郎正宗」「曾我物語」「壺阪霊験記」「山城直江守」「幡随院長兵衛」「先代萩」「黒田騒動」「小栗判官」「一の谷」「坂本龍馬」など芸風は幅広く、その力量は高く評価された。一見抑揚のない淡々たる節や会話ぶりを見せたが、その中から得も言われぬ滋味の溢れた表現力の高い浪花節を見せた。

 どちらかというと紳士淑女や玄人好みのする浪花節であったようである。

 正岡容は『雲右衛門以後』の中で以下のように評価している。

 中川 伊勢吉
 隠退するまで親友派の頭取を勤め、関西浪曲界有数の信望ある人と云はれた。 嘗ては、美音天下一と歌はれたと聞くが、筆者の接した晩年(昭和三年)の高座は、いかにも枯淡な物寂びたもので、節もはやジットリと落ち着いてみた。
 デッブリとした品のいい中老で、「高野長英夢物語」を語ったが、長英の開國論の一席で、ヤマもなく、波瀾もなく、徒らに開国論そのものを展開して行くのみの凡そ変化のない場面にもかはらず、云ひ知れなコクがあり、風趣があり、少しの倦怠もおぼえず聴き了るを得て、凡手ならざることを、つく/\かんじずにはゐられなかつた。もちろん、恐らく始めはこの藝風の正反對の花やかさのものであり、 加ふるに美聲美音の鬼に金棒だつたのが、次第に淡々、水のごとき、この境地まで 到達してしまったのだらう。
「曾我兄弟」「五郎正宗」「川中島」「小栗判官」など、すべて、金襖物に長じてゐた。「小栗判官」は関東節の母胎たる説教節の上演曲目にもありながら、関西節にも昔は伊勢吉、小虎丸といろ/\の人の採上げてみるのがおもしろい。上古からいかに普ねく人口に膾炙してゐた人生悲話だつたかゞ想像できる。
例の「ニッポノホン音譜文句全集」に「小栗判官」の歌詞があるが、夫ある身の 照手姫が勤めをしろと云ふのを無下に断るので「七十六人家內の本公一人でせよと 命令られ」馴れぬ「水汲の水の搭荷を担」ぐ件り、いかにも美音哀音で語られたら 哀しかったらうと、左に拔書きして見る。
「前が下がれば後方が上がる、前が上がれば後下がる、バッタリ博げて父起上がり、道は路やら沢やら、おいでなされし野中の清水、荷投げ捨てフッと泣き、悲惨の奉公ができようか、過ざし夫のお目通り、この清水に身を投げて、死んで途で 貞女を尽しませうと姫様が、西を眺めて掌を合はせ(下略)」
不熟稚拙の文句もあるだけに、それだけに感情が直接で、明るい/\野原の中の井戸一つ、マザ/\と目前に見ゆるおもひがするではないか。

 30代にして一流の風格を有しており、雲右衛門、奈良丸に次ぐ人材として高く評価された。親友組合の幹部を早くから歴任し、人徳の方でも高く評価された。

 実際、梅中軒鶯童は師匠のいない身の上にもかかわらず、伊勢吉は何かと目をかけてくれたそうで、門弟でないにもかかわらず伊勢吉会(中川一門会)に出入りさせて仕事を与えたり、「旅回りばかりでは芸が駄目になる」と鶯童を叱責した上で大阪の寄席を斡旋してくれたり――と、非常に面倒見が良かったという。

 さらに、これと前後して九州からやって来た小雀ミヤ子を引き取り、「春野百合子」として売り出したのもこの伊勢吉であるという。百合子が広沢虎吉、吉田奈良丸に気に入られ、一枚看板になったのはこの伊勢吉の売り出しがあったからだという。

 また浪曲師としては珍しくなかなかの蓄財家・経営家として知られ、自分の給金から「伊勢の家」という女郎屋を経営し、副業としても成功するというしたたかな一面を持っていた。

『日布時事』(1912年9月9日号)に掲載された「浪花節物語り」の番付では、西の二枚目。京山若丸の一枚下で、浪花亭峰吉、東家楽遊、藤川友春、広沢虎吉、宮川松安、東家楽燕、玉川勝太郎などを制しての二枚目である。

 声が大きく品もいい芸風もあって、吉田奈良丸、京山小円と共にレコード会社が登用した。レコードが片面盤時代の時代から吹込みを行っている。これらの一部は日文研のサイトで聞く事ができる。

 1914年1月、日蓄から『曾我兄弟』を発売。

 1914年4月、日蓄から『五郎正宗』を発売。

 1914年6月、日蓄から『照手姫』を発売。

 1917年の番付では、大関。東家楽燕と並んでのランクインなので凄い。

 1919年の親友組合の改選で副取締役に就任。岡本鶴治取締役の下で関係者の統一に大きな功績を残した。

 1920年7月、オリエントから『五郎正宗』を発売。

 1922年の改選で取締役に就任。岡本鶴治の引退の手引きを行ったり、浪曲大会の交渉など、浪曲の地位向上に全力で立ち向かった。3年ほど取締役を務め、後は京山若丸に禅譲している。

 1924年1月、東亜レコード『直江山城守』を発売。

 1924年3月、東亜レコードから『鬼景清』を発売。

 1927年4月、オリエントから「坂本龍馬」を発売。

 1927年12月、オリエントより「一の谷」を発売。

 1928年8月15日、東京のJOAKに出演し、「曾我物語」を放送している。

 1928年9月12日、JOBKに出演し、「景清誠忠録」を放送。

 この頃の番付から既に、宮川松安、吉田奈良丸などと並んで「取締役」「元老」といった扱いを受けるようになった。

 1932年2月7日、JOAKに出演し、全国中継で「源平盛衰記」を放送。

 1934年3月8日、JOBKに出演し、「那須与一扇の的」を放送。

 1935年1月13日、名古屋放送へ出演し、「黒田騒動」を放送。

 この頃から引退を考えるようになり、数ある弟子の中から芸豪の中川伊勢夫を「五代目伊勢吉」に指名し、自らは引退公演を行って舞台から退いた。

 その後は静かに余生を送っていたというが、折しも戦争が勃発し食糧統制や空襲などに苦しんだ他、愛弟子の伊勢勝に先立たれるなど、暗い晩年であった。

 梅中軒鶯童によると「昭和21年没」。戦後間もない静かな死であった。

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