有栖川宮から称号を貰ったという浪花大掾

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有栖川宮から称号を貰ったという浪花大掾

 人 物

 浪花なにわ 大掾だいじょう
 ・本 名 西山 丈吉  
 ・生没年 1881年~1930年
 ・出身地 岡山県

 来 歴

 浪花大掾は戦前活躍した浪曲師。二代目広沢虎吉門下で「廣澤菊円」と名乗っていたが、有栖川宮の前で御前口演をし「浪花大掾」を自称するようになった。

 「大掾」とは、中世以来、皇族や貴族が職人や芸人、音曲の太夫などに「受領」という形で与えた名誉称号の一つである。 大掾・掾・小掾の三階級があった。

 職人や武家に対する「掾」の号は江戸時代までに廃れたが芸人に対する受領は、戦後まで行われた。文楽の元祖・竹本義太夫は「筑後掾」と名乗り、明治期の名人・竹本越路太夫は「摂津大掾」と名乗った。

 戦後は豊竹靭太夫が「山城少掾」と秩父宮から名を受領され、更には人形遣いの名人・吉田文五郎も「難波掾」を東久邇宮家より受領されている。

 浪花節も一時期皇族や貴族に近寄って、「御前口演」を実施。その見返りで「掾」を受領したと名乗るのが多かった。ただしそのほとんどはこけおどしであったようである。

 さて、浪花大掾である。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しく掲載されていた。引用してみよう。

 廣澤家の重鎮として其名汎く世に知られたる氏は明治十四年備前国に生れ明治三拾三年廣澤虎吉(現今の井上晴夢氏)の門に入り廣澤菊圓と名乗り日ならずして大看板となり、明治四十二年某宮殿下より権大教正を賜り同時に浪花大掾と改め浪界の奇傑と称され各地にて好評嘖嘖たり

『浪曲家の生活』によると、若い頃は山口県でちょっとヤンチャをしていたようである。

 1900年に、当時の関西浪曲の大御所・二代目廣澤虎吉に入門。関西浪曲の名人・廣澤晴海、浪曲界の大スター・廣澤虎造は弟弟子にあたる。

「菊圓」と命名され、修業を積んだ。「菊燕」と書く資料もある。

 師匠譲りの関西節と啖呵を武器に、独自のユーモアと豪快さを入れた浪曲を開拓。若い頃は「宮本武蔵」「曽我物語」「忠臣蔵」などといった仇討ものを演じていたという。

 1909年、有栖川宮の前で御前口演を行い、お褒めの言葉をもらう。その時、教導職・権大教正なる役職を拝受され、これを機に「浪花大掾」と改名。有栖川宮から直接許されたかどうかまでは不明。

 この御前口演と改名を土産に、大阪に帰還。師匠の運営する廣澤館で襲名披露を行おうとしたら、虎吉にバレて「改名するなら上に廣澤をつけんかい!」とドヤされた伝説が残っている。菊圓、平謝りだったらしいが、それでも廣澤を屋号につける事はなかった。いい加減である。

 1910年3月、再び上京。

 3月20日、徳川宗家・徳川家達の送別会に列席し、浪曲を口演。お褒めの言葉と緞帳が送られ、当人鼻高々であったという。

 この緞帳をもって21日~25日、蓬莱座で浪曲大会を実施。「曽我物語」「安倍晴明」「宮本武蔵」などを口演して、東京の客を感心させたという。

 その後は大阪へ戻り、師匠の虎吉の興行する廣澤館を中心に活躍。廣澤派の重鎮としてにらみを利かせるようになった。

 一方、奇人としても知られた。束帯姿で舞台に上がる、貯金が好きだが銀行が嫌いでいつもテーブル掛の下に金を入れたバッグを隠しておいた、一等車のチケットが取れなかったので貨車に乗ろうとした――などと逸話は数多い。

 1911年9月23~27日、京都座で独演会を実施。『近代歌舞伎年表京都編』に詳しくあるが、義士伝の連続読みをした模様。「初日のこととて頗る客足よく、八時大入」と『京都日の出新聞』で絶賛されている。

 震災後は、勃興したラジオ放送にも積極的に出演。一時は宮川松安と人気を競い合った程、ラジオスターであった。

 1925年12月9日、開設されたばかりのJOBKに出演し、『倉橋伝助』を放送。

 1926年11月、金鳥レコードより『倉橋伝助』を吹きこみ。

 1927年4月3日、JOBKより「信田狐」を放送。

 1928年1月16日、JOBKより「倉橋伝助」を放送。

 1928年2月21日より25日まで、名古屋放送へ連続出演。「天野屋」「勝田新左エ門」「岡野金右衛門」「孝子迷いの印籠」「高田馬場」を口演。

 1928年4月3日~6日、高知座に出演。

 1930年10月20日、JOAKに出演し、全国中継として「乃木大将」を放送。

 梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によると、「昭和5年没」との事であるが――急逝したのだろうか?

 一方、小菅一夫が『浪曲展望10号』(1979年6月)で掲載した昔ばなしでは「晩年は中川伊勢吉一座の座員となり、不遇をかこつていた。息子は日支事変で出征、妻が病気になり、その看病に明け暮れていた。ある時、妻の薬を貰いに行った道中で事故に遭遇し急死、妻はショック死した」と書いている。

 日中戦争との辻褄が上の享年とは合わない。どうしたものか。

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